教室ブログ

2010.12.10

その2

The truth is that she spoke about her misfortune without any shame in order to cover up the other misfortune, the real one, that was burning in her insides. (Gabriel Garcia Marquez )

「実を言うと、彼女が自分の不幸について、何の恥じらいもなく話したのは、もう一つの不幸、彼女の心の奥底でなお炎を放っていた真の不幸を隠すためだった。」

こんばんわ、いやこんばんは。
今気付いたんですが「こんばんわ」は誤表記です。

「こんばんは」の「は」は助詞です。「てにをは」の「は」であり、「私は」などの「は」と機能は同じですね。
「今晩は」の後に続く「どうでしょう」などが省略された形の挨拶であるから、「わ」になるのは端的に間違いである云々。

なんと、このブログでいままでずっと「わ」と表記してるやないか。
入試の小論文とかマスコミの作文試験のこと云々であまりえらそうなことはいわないことにしよう(笑)。

さて、前回小学生のことに少し触れましたが、特に6才から10才くらいまでを「児童期」というらしいですね。
児童期というのは、端的に性的発現の時期でありまして、そのときそれを抑圧して、知識とか技術とか道徳を強制する時期でもあります。
具体的には学校に通って勉強する時期ですね。

見かけ上は性的発現や成熟を弾圧する、つまり潜在的にしておいて、顕在的には道徳や知識を学ぶわけです。
とうぜん、人によっては学校に行き続ける人もいるから、児童期がずっと延長する人もいるといわれています。

とにかく思春期の手前にあるこの児童期というのはあまりよく分からない、不可解な時期で、まだうまく解明されていないらしい。
発達心理学みたいなものでも、わりとおざなりにされている分野だといわれております。

では前置きが長くなったんですが、ルソーの「人間不平等起源論」英訳の続きを読んでいきましょうか。

ルソーは主著「告白」のなかで、じぶんの生涯は不幸だったといっていますね。
これは決定的なことでして、その不幸を超人的な意志で絶えず超えようとしたわけですが。
(このへんのルソーの精神の発達史については吉本隆明の「心とは何か」に書かれています。)

自ら不幸であるというのは何ものにも代えがたい主観ですし、ルソーがいかに偉大で世間から評価されていようと、実存的な幸・不幸と取りかえることはできません。そして、この実存あるいは存在論的な幸・不幸は先にいった児童期を中心に形成されるといわれています。

いずれにしろ、実存の幸・不幸は、誰にとってもその後の金銭や知識などで代替できるものではありませんね。

ルソー自身は、その児童期に入ったときに牧師の家に預けられ、そこの牧師の妹ランベルシェにセッカンされて、マゾヒスティックな快感を味わったといっています。そのあとも美しい女は悉くランベルシェに見え、思春期以降も女性といわゆるマゾ的な服従関係を結んでいます。
ルソーは女性には内気で渇望するだけで、実際は傲慢な女にひざまずいて許しを乞うのが快楽だったといわれています。

それでは本文です。
人間と動物の差異について述べられています。

第一文目のbutは前置詞で「…以外の」、その後のhathというのは古風な用法で、have の直説法 3 人称単数現在形です。
次に、agentというのはこの場合は「行為者、動作主」くらいの意味で、a free agentだと自由行為者、つまり「自己の行為を自らが決定できるもの」ということです。

I see nothing in any animal but an ingenious machine, to which nature hath given senses to wind itself up, and to guard itself, to a certain degree, against anything that might tend to disorder or destroy it. I perceive exactly the same things in the human machine, with this difference, that in the operations of the brute, nature is the sole agent, whereas man has some share in his own operations, in his character as a free agent.

The one chooses and refuses by instinct, the other from an act of free-will: hence the brute cannot deviate from the rule prescribed to it, even when it would be advantageous for it to do so; and, on the contrary, man frequently deviates from such rules to his own prejudice. Thus a pigeon would be starved to death by the side of a dish of the choicest meats, and a cat on a heap of fruit or grain; though it is certain that either might find nourishment in the foods which it thus rejects with disdain, did it think of trying them. Hence it is that dissolute men run into excesses which bring on fevers and death; because the mind depraves the senses, and the will continues to speak when nature is silent.

「私は動物というのはすべて精密な機械だと考えている。自然はこの機械に、感覚器官というものを与えた。この器官によって機械は、自分で自分のネジをまく。そして自分を破壊したり調子を狂わせたりするものから、ある程度は身を守れるようにしているのである。人間という動物の機械にもまったく同じ機構がある。ただ動物という機械では自然がすべてを定めるが、人間は自由な行為者として自然に協力するという違いがある。

動物は本能によって選択し、拒否するが、人間は自由な行為によって選択し、拒否するのである。だから動物は、たとえそれが自分の利益となる場合にすら、自然の定めた規則から離れることはできないし、人間はみずからを損ねる場合にも、規則に反して行動することが多いのである。こうして鳩は極上の肉が盛られた皿の上で飢え死にするだろうし、猫は果物や穀物を山のように与えられても飢え死にするだろう。鳩も猫も試してみさえすれば、それまで見向きもしなかった食べ物で、生き延びることができただろうに。これにたいして放埓な人間は不摂生に走り、そのために熱病にかかって死んでしまう。精神が感覚を変質させ、自然が口をつぐむときにも、意志はかたりつづけるからである。」

いかがでしょう。古めかしい英文でしたね。

ルソーはやはり18世紀の人ですから、動物についてはわりと素朴な考え方をしています。
前世紀にデカルトなどが唱えた機械論的自然観というやつです。
この頃の社会に普及していたものにポンプと時計があります。特に時計のように内部が精巧で自動的に動く機械の登場は、動物と機械の類比を想像させたのでしょう。ちなみにルソーの父親はスイスの時計職人ですね。

後半部では、動物と異なり人間は自由な行為によって選択するといっています。自由というと深遠なものを考えがちですが、端的に私的所有が認められているということですね。

私的所有とは、簡単にいえば、ある対象を私のみが自由に扱ってもかまわないということです。きわめて近代的な権利なのですが、これがないところでは自由は考えられませんね。

例えば、ある特定の個人が、土地なり建物を所有していて、別の者が無断でそこに出入りしたり処分したりする場合、そこに個人の自由はありません。
この私的所有こそ、ふつう僕たちが考える自由の範域を決めているといってもいいでしょう。

ただし、ルソーのいう自由はこれを踏まえつつも明らかに意味をずらしていきます。私的所有こそ人間の不平等の基礎であり、「何も所有しない人々はあらゆる束縛から自由ではないか」ともいっていますね。

今日はここまでです。


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