教室ブログ

2010.12.16

その3

“You can appreciate Schubert if you train yourself. I was the same way when I first listened to him ‐ it bored me silly. It’s only natural for someone your age. You will appreciate it in time. People soon get tired of things that aren’t boring, but not of what is boring. What’s that all about. For me, I might have the leisure to be bored, but not to grow tired of something. Most people can’t distinguish between the two.” (Haruki Murakami , Kafka on the shore)

「シューベルトは訓練によって理解できる音楽なんだ。僕だって最初に聴いたときは退屈だった。君の歳ならそれは当然のことだ。でも今にきっとわかるようになる。この世界において、退屈でないものには人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ。そういうものなんだ。僕の人生には退屈する余裕はあっても、飽きている余裕はない。たいていの人はそのふたつを区別することができない」

こんばんは。楠見校スタッフです。

欝な時期ですね。12月に入ってからずっと塾生の進路面談が続いています。
いつものことなんですが、高校生なんかは将来何をやりたいかで迷っている子が多いですね。けれど迷うのは当然のことで、早くにみつかって「よっしゃー」(笑)とか何とかいってる暢気な人がまわりにいたら、それは疑ったほうがいいと思いますよ。「これ、お若いの。あんたそりゃ嘘でしょ」(笑)と。

やりたいことが見つからない、迷うというのは当たり前のことで、人間にはモラトリアムがありますからね。動物みたいにやることが本性的に決められているわけじゃなくて、そのモラトリアムが人間の本質みたいなところはあるでしょう。モラトリアムというのは執行猶予、決断猶予ということでして、大学生になってもそれ以降も続くと思います。

自分はいったい何なのか(知るかっ)みたいな実存の不安だとか自分には何が向いているんだろうという適性の悩みを得々と考えていること自体がモラトリアムだし、人間として当たり前のことですからね。

ただ、考えるにもそれにふさわしい能力が必要ですから、周囲の意見はほどほどに、自分の選択肢のうちで相対的に好ましいことをやってみたりその場に足を踏み入れてみたりすることも必要だと思います。そうすれば経験に裏打ちされた考える能力もついてくるはずです。あと、そのついでにカノンと呼ばれるような重厚な書物をみずみずしい若い時期に読んでみることを勧めますね。往々にしてわけも分からず退屈なのですが、飽きることはありません。

それではルソーの「人間不平等起源論」英訳のつづきを読んでいきましょうか。
ルソーは近代小説の開祖のようなところもありますし、その著作は古典と呼ばれるものの中では、精確な読解云々を問わなければ読みやすいです。

人間と動物を隔てる第二の能力について述べられています。

However, even if the difficulties attending all these questions should still leave room for difference in this respect between men and brutes, there is another very specific quality which distinguishes them, and which will admit of no dispute. This is the faculty of self-improvement, which, by the help of circumstances, gradually develops all the rest of our faculties, and is inherent in the species as in the individual: whereas a brute is, at the end of a few months, all he will ever be during his whole life, and his species, at the end of a thousand years, exactly what it was the first year of that thousand.

Why is man alone liable to grow into a dotard? Is it not because he returns, in this, to his primitive state; and that, while the brute, which has acquired nothing and has therefore nothing to lose, still retains the force of instinct, man, who loses, by age or accident, all that his perfectibility had enabled him to gain, falls by this means lower than the brutes themselves? It would be melancholy, were we forced to admit that this distinctive and almost unlimited faculty is the source of all human misfortunes; that it is this which, in time, draws man out of his original state, in which he would have spent his days insensibly in peace and innocence; that it is this faculty, which, successively producing in different ages his discoveries and his errors, his vices and his virtues, makes him at length a tyrant both over himself and over nature.

「しかし、これらすべて問題に付随するさまざまな難点があって、人間と動物の違いについて、なお議論の余地が残っているのは確かであるが、人間と動物を区別する別の特別な性質があり、これについては議論の余地はないのである。それは人間にはみずからを改善していく能力が備わっているということである。これは環境の力を借りて、次々とあらゆる能力を発展させていく力であり、この能力は種としての人間にも、個体としての人間にも存在している。これに対して動物の個体では、数ヶ月のあいだにすべての能力の発展が終わり、その後は一生をつうじて変わることがない。そして動物の種は1000年後になっても、最初の一年の状態と同じままなのである。

人間だけが耄碌するのはなぜだろうか。それは老齢とともに最初の状態に戻るから、老衰やその他の事故のために、自己改善能力によって獲得したすべてのものを失ってしまうからではないだろうか。動物は何も獲得しなかったので、何も失うものはなく、本能のままにとどまるが、人間は耄碌したのちは、動物よりも劣った存在になってしまうのである。この特異な、そして、無制限な能力が、人間の不幸の源泉であること、この能力が時の経過とともに、平和で無辜なままに過ごしていた原初の状態から人間をひきずりだすものであることを認めざるをえないのは、なんとも悲しいことではないか。この能力こそが人間のうちに知識の光と誤謬とを、悪徳と美徳とを、数世紀の時の流れのうちに孵化させて、ついには人間を自己と自然を支配する暴君にまでしてしまったのである。」

いかがでしたか。
ルソーが設定した自然状態の人間というのは、自足的で生活は平和なイメージでしたね。つまり、相対的に善というのが自然人の特性であります。しかしながら、事態はここでとどまらず、動物にはない二つの能力が与えられて変容がおこったということです。

まず、人間を動物と区別する第一の能力として自由の能力が本性に植えつけられたということでした。
そして、第二の能力が本文に出てきたルソーの造語でもある「自己改善能力」というやつですね。これは人間がおこなう自由な行為をとおして実現されるもので、漫然と自然の状態に滞留していることができなくなるわけです。

自然状態の人間は本性的に善であるというルソーのテーゼは、人間は本性的には人間以下のものであるという考えに即して理解する必要があります。つまり、もともとの人間には特筆するような自然的性質はなく、彼がどちらかといえば善であるのは、本性的に善くも悪くもなりうる人間以下の存在者だからです。
人間的と形容されるようなものは、すべて「自由」という能力によって獲得されたものであり、究極的には人為によるものですね。

そして、第二の「自己改善能力」によって、ほとんど無限の完成への道を歩みよることができるので、悪いことを避けて高次のよりよき段階へ高めることができるわけです。けれど、その高次の段階へ高めるというのは必然ではなくて、際限のない堕落に退歩していく可能性もあるわけです。
このあたりは、ルソーに内在している複雑性で、通常の進歩史観や啓蒙学派のように人類の進歩を奉じているわけではないですね。

今日はここまでです。


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