教室ブログ

2010.12.05

その1

Let us begin therefore, by laying aside facts, for they do not affect the question.(J.J. Rousseau )

「だからすべての事実から離れることから始めよう。事実では問題の核心にふれることができないからだ。」

こんばんわ。今日は好きなルソーの言葉から始めてみました。

個別指導Wamは小学生から高校生まで通っているのですが、その中にはとうぜん小学低学年の子たちもおります。机に座ってひたむきに算数や国語を勉強していまして、このまま順調に育ってくれたらいいのになと思いますね。

昔はまったくかわいいとは思わなかったのですが、(学生のときなら誓って講師はしなかったでしょう)最近はそういう光景をみるのも微笑ましくなってきましたね。

僕自身、小学校1年生の子の授業をしていたこともあるのですが、こちらの感情の機微をすばやく察知するのには驚かされたことがあります。自分のことを振り返っても、これくらいの年の子はいろいろ分かっていて、もう殆ど付け足すものはないんじゃないかと思うときがありますね。
だって、その後の知識とか技術とかはろくなものじゃないでしょう(笑)

さて、みなさんは人間と動物の違いを考えたことがあるでしょうか。
大学入試の英語長文なんかにもよく出てきそうなトピックでしょうが、色々な説があって未だにときどき問題になりますね。

ここ何年かのうちに現代科学の進歩、とくに霊長類の研究の進展によって人間と動物の境界がぼやけてきているらしいですね。
その中でチンパンジーなどの類人猿は、高等数学の基礎的仮定をなしている構造や関係を理解できるといわれています。

さらに100年くらい前に提唱されたものですが、人間の前頭連合野は他の霊長類と比べて極端に大きく、それにより人間だけはすぐれた認知能力を発達させてきたというのがありました。けれどこの説も近年あやしくなってきて、実際は脳の中で前頭連合野が占める比率は、人間でも類人猿でも36から39パーセントぐらいで大差はないということがわかってきたらしい。

要するに人間を人間たらしめているものは知能ではないということですね。

それでは何かといえば、「人間は複雑な言葉を使って抽象的な思考が出来る」というものがありますね。

しかしながら、近くのコンビ二にいったときなんかに中学生の集まりなんかが野犬のようにたむろしておりまして、「ぐあぁっ」とか「ピけぇー」(笑)とか奇声を発するのを聞いたり、もう少し年齢の近い人でも殆ど言葉を喋らない連中もいるので、この説も再考の余地がありそうですね。
あとちょっとした猫語なら解することができますし、彼らのほうがもう少し器用で繊細ですよと(笑)。まぁこれは冗談ですが。

前置きが長くなりましたが、今回はJ-J・ルソーの「人間不平等起源論」の英訳を読んでいきましょう。

フランス革命の理論的根拠をあたえ、「社会契約論」などでもお馴染みのルソーですが、彼の経歴は普通の思想家のものとはまったく異なります。
遍歴に遍歴を重ね、ブルジョワ女のヒモをしつつ、詐欺や乞食、家庭教師や音楽家などをしながら生きてきた人間です。正規の教育など受けず、万巻の書物を読んで自分をつくりあげてきた思想家のいったんを覗いてみましょうか。

英文そのものは文語調であり、willではなくshallが使われています。
shallのほうが強い語感があり、向こうの法律文書などでは、あまりwillが顔を出すことはなく基本的にshall一本槍ですね。例えば、日本国憲法の英訳文などもすべてshallで通してあるはずです。

However important it may be, in order to form a proper judgment of the natural state of man, to consider him from his origin, and to examine him, as it were, in the first embryo of the species; I shall not attempt to trace his organization through its successive approaches to perfection: I shall not stop to examine in the animal system what he might have been in the beginning, to become at last what he actually is; I shall not inquire whether, as Aristotle thinks, his neglected nails were no better at first than crooked talons; whether his whole body was not, bear-like, thick covered with rough hair; and whether, walking upon all-fours, his eyes, directed to the earth, and confined to a horizon of a few paces extent, did not at once point out the nature and limits of his ideas.

I could only form vague, and almost imaginary, conjectures on this subject. Comparative anatomy has not as yet been sufficiently improved; neither have the observations of natural philosophy been sufficiently ascertained, to establish upon such foundations the basis of a solid system. For this reason, without having recourse to the supernatural informations with which we have been favoured on this head, …

人間の自然の状態(エタ・ナチュレル)について正しく判断するためには、その起源から考察を始めて、いわば種の最初の胎児の状態から調べることが重要なのは確かである。しかしわたしは、人間のさまざまな器官がどのような段階を追って発展していったかを調べるつもりはない。また最初の状態はどのようなものだったか、どのようにして人間が人間になっていったかを、動物の体系のうちに立ちどまって考察するつもりもない。アリストテレスが考えたように、人間の長くのびた爪は最初は鉤形の猛獣の爪のようなものではなかったかとか、皮膚が熊のような毛で覆われていたのではないか、四足で歩いていたのではないかとか、まなざしが地面に向かっていたので、数歩さきまでしかみていなかったのではないかとか、こうしたことが人間のもつ観念の性格や限界を定めていたのではないかなどの問題を考察するつもりはないのである。

この主題については、漠然とした推測や、ほとんど想像に近いものしか語ることができないだろう。比較解剖学はまだほとんど進展しておらず、博物学者の観察もあまりに曖昧であり、このような土台の上には、確固とした推論を構築することはできないのである。そこでわたしは、この問題に関してわたしたちが持っている超自然的な知識(聖書の語ること)に訴えたりしないつもりである。・・・

いかがでしたか。
ルソーのいう自然の状態の人間というのは、大胆な問題設定です。単なる仮説ではありません。
歴史の教科書に出てくるアウストラロピテクスやネアンデルタール人みたいなものではないですね。かつて実在したかもしれない原始人や進化論から辿れる人類の祖先のようなものではないといっています。
もちろん聖書が定める人間(the supernatural informations)とも決別するとも書いていますね。

一個の類まれな想像力が、歴史的な事実よりも真実に迫る場合はありますね。

ルソーはこのあと、経験的に観察される対象ではないこの自然の状態を、絶対的に孤独な状態として描いていきます。さらにその状態はその状態に基づいて閉ざされていると仮定しています。

ちなみにルソーは人間と動物の違いは、「自由」があるかどうかとしていますね。つまり、動物は遺伝子にあらかじめインストールされた本能に従うが、人間は自由をもとに行動を修正していくことができると。

次回また続きをしましょう。


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