教室ブログ

2010.11.18

犬が吼えればキャラバンは進まぬ

「私もまた、絵描きなのだ」(シャルル・ド・モンテスキュー)

こんばんわ。楠見校スタッフBです。
冒頭に中学3年生にも馴染みがあるモンテスキューの言葉を掲げましたが、彼は「法の精神」を執筆するのに20年かけたらしい。
モンテスキューはこの中で歴史事例を研究しつつ、様々な政治技術を構想したようですが、みなさんご存知の「三権分立」もその一つです。

さて、5日ぶりの更新です。
楠見校のこの一週間は、4回目の中3特訓と1回目の高3講座が終了しまして、さらに犬たちに吼えられつつも六十谷校の教室長と有功地区にWamの紹介にいっておりました。

それにしても、犬はなぜかくも僕ばかりに吼えまくるのか。
他の通行人や配達のおいやん(和歌山弁)には大して吼えないのに。
それが連中の仕事なんでしょうけど、少し玄関先に接近しただけで、もうそりゃほえるわほえるわどこまでもってな感じですね。

幼いころ飼い犬に悪戯して手を噛まれ、いつも吼えられていたんで(しかも犬が生きている間ずっと)、犬(特に大型の狩猟犬)に対して本能的な嫌悪と恐怖があるのは確かなのですが。里見八犬伝の化け猫一族じゃないんだから許してくれよって思いますね。

畢竟、プラトンによれば、飼い犬は本来の獣・野犬としての本能的テリトリーともう一つ偏執的に飼い主に結びついたテリトリーがあるそうで、そのテリトリーを侵食する可能性のある者に吼え立てるのでしょうけれど。そうすることで主人への献身的な忠誠を誓っているようです。

では、今回は「人間と犬は例外的に沈鬱な動物だ」といった哲学者G・ドゥルーズの文章を読んでみましょうか。
スピノザについて書かれた入門的な本の英訳となります。

英文中にあるコロンに注意してください。コロンの用法は、1・「詳しく述べる」または「いいかえ」 2、「例示→前でいった内容の例をいくつかあげる」です。

「悪」について簡単に触れています。

“Thou shalt not eat of the fruit…”:the anxious, ignorant Adam understands these words as the expression of a prohibition. And yet, what do they refer to? To a fruit that, as such, will poison Adam if he eats it. This is an instance of an encounter between two bodies whose characteristic relations are not compatible: the fruit will act as a poison; that is, it will determine the parts of Adam’s body(and paralleling this,the idea of the fruit will determine the parts of his mind)to enter into new relations that no longer accord with his own essence.

But because Adam is ignorant of causes, he thinks that God morally forbids him something, whereas God only reveals the natural consequence of ingesting the fruit. Spinoza is categorical on this point: all phenomena that we group under the heading of Evil,illness, and death,are of this type: bad encounters,poisoning,intoxication,relational decomposition.

「おまえはこの木の実を食べてはいけない・・・・」。不安でもあり無知でもあるアダムは、このことばを禁止命令として受け取る。だが、何がここで問題となっているのだろう。ある木の実のことであり、その限りでこの木の実はアダムがそれを食べれば毒となるだろうということである。まさにこれは二つの体が出会い、そのそれぞれに特有の構成関係がひとつに組み合わさらないケースである。その木の実は毒としてはたらくだろう。いいかえれば、それはアダムの身体を構成している諸部分を(またそれと並行して、この木の実の観念は、アダムの心を構成している諸部分を)、アダム固有の本質にはもはや対応しない、あらたな構成関係のもとに入るよう決定するだろう。

ところが、アダムは原因について無知なために、神はただ単にその木の実を摂取すればどういう結果になるかを彼に啓示しているにすぎないのに、神が道徳的に何かを禁じているものと思いこんでしまうのだ。スピノザが何度も繰り返しこれを例としてあげるのは、一般に私たちが<悪>として捉えている現象は、病いや死も含めて、すべてがこのタイプの現象、いいかえれば、悪い出会い、消化不良、食あたり、中毒であり、つまりは構成関係の分解にほかならないからだ。

明快に書かれているので詳細な解説は蛇足でしょう。

アダムが不幸になった原因は、ふつうの旧約聖書の解釈としては神の禁止した木の実(善悪の知識が詰まった)を彼が食べたからだとなっていますね。
しかし、ドゥルーズはその木の実が、アダムの体質に合わずに中毒か消化不良を惹き起こしたのだといっています。つまり、それが不幸の原因であり「悪」なのだと。

どんな行為でも、それ自体だけをとれば「よい」わけでも「わるい」わけでもないのですね。
個体(人間)の本質や構成関係を分解=台無しにするものが<悪>として糾弾されなければならないといっているわけです。

次回、もう少しドゥルーズのスピノザ論を読んでいきましょう。


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