教室ブログ

2010.11.21

Pillow on the mountain

….a girl walks along a stream, sees a frog, takes it gently into her lap, kisses it, and, of course, the ugly frog miraculously turns into a beautiful young man. However, the story wasn’t over yet: the young man casts a covetous glance at the girl, draws her towards himself, kisses her ? and she turns into a bottle of beer which the man holds triumphantly in his hand…..

「・・・小川のほとりを歩いている少女がカエルを見て、そっと膝にのせ、キスをする。するともちろん醜いカエルはハンサムな若者に変身する。しかし、それで物語が終わったわけではない。若者は空腹を訴えるような眼差しで少女を見て、少女を引き寄せ、キスをした。すると少女は瓶ビールに変わり、若者は誇らしげにその瓶をかかげた。・・・」(S・ジジェク How to read Lacan)

こんばんわ。楠見校スタッフBです。
上の女の子とカエルの話は、男女の非対称的な関係をうまく表現していますよね(笑)。

今日は有功中学の付近まで山登りと住宅見学にいきました。
いつも思うのですが色々な家があってなかなかパターン化しにくいですね。似ていそうな家でも門構えや屋根等に微細な差異があるでしょう。

誰かがいってましたが、日本の家屋は個性的で千差万別だが、住人は没個性的で千篇一律だと。逆にアメリカの家屋はどこも同じような光景が続いているが、住人は個性的過ぎて類型化できないと。

あと、中学が想像以上に山の上にあるじゃないですか。
貴志中学や楠見中学なんかもその山上の立地に驚きを隠せなかったんですが、もうそれ以上やないか(笑)。

宅地の問題もあるのでしょうが、少なくとも高校や大学は相応の市街地に建てるべきだし、個人的にはそういう学校を選ぶべきだと思いますね。

特に大学なんて「交通」こそ唯一のメリットだろうし、周囲から隔離された学校に何年も通ってるとコミュニケーション能力に偏りが出てくるんじゃないでしょうか。

さて、今回もドゥルーズのスピノザ論の英訳を読んでいきましょう。

スピノザに限らず、哲学者の書というのは情動を抑える働きがあると思います。
僕自身、それはかなり色々な感情に苛まれる人間なので、そういった情動を管理する為にもこういうものが必要なんでしょうか。

スピノザ自身も、憎悪や怒りといった情念から人は決して自由にはなれないが、その原因を考えるあるいはそれを考えているうちは、その情念から自由になることができるといっています。
ドゥルーズなんかも、哲学は宗教や科学や法律のような力は持たないが、思わぬ静謐の感をもたらすといっていますね。

では本文。「いい」「わるい」について述べています。
明らかな対比関係で大意はとりやすいですが、修飾部分がポンポンと後置されていて少し読みにくい箇所もあるかと思います。

細かい意味は日本語を参考にしてみてください。

…That individual will be called good(or free, or rational,or strong)who strives, insofar as he is capable,to organize his encounters, to join with whatever agrees with his nature, to combine his relations with relations that are compatible with his, and thereby to increase his power. and the composition of powers. For goodness is a matter of dynamism,power and the composition of powers.

That individual will be called bad, or servile, or weak, or foolish, who lives haphazardly, who is content to undergo the effects of his encounters, but wails and accuses every time the effect undergone does not agree with him and reveals his own impotence. For, by lending oneself in this way to whatever encounter in whatever circumstance, believing that with a lot of violence or a little guile, one will always extricate oneself, how can one fail to have more bad encounters than good? How can one keep from destroying oneself through guilt, and others through resentment, spreading one’s own powerlessness and enslavement everywhere, one’s own sickness, indigestions, and poisons? In the end, one is unable even to encounter oneself.

『・・・いい(自由である、理性的である、強さをもつ)といわれるのは、自分のできる限り出会いを組織立て、みずからの本性と合うものと結び、みずからの構成関係がそれと結合可能な他の構成関係と組み合わさるよう努めることによって、自己の力能(能力・性能)を増大させようとする人間だろう。つまり、「よさ」とは活力、力能の問題であり、各個の力能をどうやって一つに合わせてゆくかという問題だからである。

わるい(隷従している、弱い、馬鹿である)といわれるのは、ただ行き当たりばったりに出会いを生き、その結果を受けとめるばかりで、それが裏目にでたり自身の無力を思い知らされる度に、嘆いたり恨んだりしている人間だろう。いつも強引に、あるいは小手先でなんとか切り抜けられると考えて、相手もかまわず、それがどんな構成関係のもとにあるかもおかまいなしに、ただやみくもに出会いを重ねていては、どうしていい出会いを多くし、わるい出会いを少なくしてゆくことができるだろうか。どうして罪責感でおのれを破壊したり、怨恨の念で他を破壊し、自身の無力感、自身の隷属、自身の病、自身の消化不良、自身の毒素や害毒をまき散らしてその輪を広げずにいられるだろうか。ひとはもう自分で自分が分からなくなってしまうことさえあるのである。』

前回のアダムと木の実の話の続きですね。(ちなみ“力能”というのは哲学のジャーゴンで能力・性能が合わさったような感じです)
繰り返すと、道徳的にあらかじめ決まった善や悪があるのではなくて、それぞれの場合に応じた具体的な「いい」「わるい」があるだけだ、とスピノザをしてドゥルーズは語らせます。

「いい」とは、人間(個人)と構成関係の合一をみて、私たち自身の力能を増大させるような出会いのこと。逆に「わるい」とは、人間の構成関係を分解し、私たち自身の本質に反する別の構成関係のもとに入ってしまうような出会いのことですね。

そして、「いい」「わるい」は、私たちに合うもの・合わないものという、相対的で部分的な意味にすぎないともいっています。

ここから派生して、「いい」「わるい」についての人間(の生存の仕方)の二つの類型、二つのスタイルを上記で列挙していますね。

今日は長くなったのでこの辺にしましょう。

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