教室ブログ

2010.11.26

Crassostrea nippona

….all were grinding lenses. It’s all a grand preparation for something that never comes off. Someday the lens is going to be perfect and then we are all going to see clearly, see what a staggering, wonderful, beautiful world it is….(Henry Miller).

「・・・皆あくせくとレンズ磨きに精を出しているのではなかろうか。それらすべては、いまだかつて起こらない出来事のための果てしない準備でしかない。いつの日かレンズは完成されるだろう。そして、その日にこそ私たち誰の目にもはっきりと、この世界の驚愕すべき尋常ならざる美しさが見てとれることだろう・・・」

ヘンリー・ミラー(アメリカの作家)もスピノチストだったんでしょう。
こんばんわ。楠見校スタッフBです。

さて、みなさん最近の時事ネタで何に関心があるでしょう。
東アジア情勢なんかが緊迫状態にありますね。といっても僕自身は時事的なことに殆ど関心はありません。そもそも媒体を通していると何もかもリアルな感触がまったくないですね。

ここで少しだけ日本と朝鮮(韓国)や中国との違いを考えましょうか。
日本と韓国や中国で一番異なるものはなにかといえば、それは親族構造ですね。

朝鮮・中国ともに父系集団であり、父から子へという血縁社会を基にして形成された集団で、その集団で形成される社会を父系社会といいます。そして、韓国における父系集団を本貫(ホンガン)、中国におけるそれを宗族(ソウゾク)といい、部外婚を有しています。部外婚とは同一父系集団内の結婚を許さないことですね。だから、韓国や中国では、同一本貫や同一宗族の中での結婚は社会的に許されていません。

一方、日本は母系社会というわけでもなく双系社会といわれておりまして、血縁をあまり重視していないですね。だから部外婚などはじめから考えられないし、同一父系のイトコやハトコと平気で結婚しますね。これは、韓国や中国からみるととても野蛮な行為に見えてしまうらしい。

親族構造が根本から異なるので仕方のないことなんですがね。

前置きが少し長くなりましたが、先日の続きでドゥルーズのスピノザ論の英訳を読んでいきましょう(笑)。
少し難しい単語もありますが、前回よりは読みやすい英文です。

念のため下記単語の意味を記しておきます。

all-out (形)徹底した
denunciation (名)告発、弾劾
extrinsic (形)非本質的な、外発的な
remorse (名)良心の呵責

Therefore everything that is bad is measured by a decrease of the power of acting(sadness-hatred);everything that is good, by an increase of this same power(joy-love). Whence Spinoza’s all-out struggle, his radical denunciation of all the passions based on sadness, which places him in the great lineage that goes from Epicurus to Nietzsche.

It is a disgrace to seek the internal essence of man in his bad extrinsic encounters. Everything that involves sadness serves tyranny and oppression. Everything that involves sadness must be denounced as bad, as something that separates us from our power of acting: not only remorse and guilt, not only meditation on death, but even hope, even security, which signify powerlessness.

「すべてのわるいことは、従って、活動力能の減少(悲しみー憎悪)によって測られ、すべてのいいことは、同じ力能の増大(喜びー愛)によって測られる。悲しみを基調とするいっさいの情念に対して、スピノザが徹底して闘い、根本からそれを告発しているのもそのためであり、スピノザはこれによって、エピクロスからニーチェにいたる大いなる系譜にその名を連ねているのである。

人間の内的本質を、その外発的な、わるい出会いの方にもとめるなどということは、恥ずかしいことだといわなければならない。なんであれ、悲しみをうちに含むいっさいのものは、圧制と抑圧の道具となる。悲しみをうちに含むいっさいのものは、わるいものとして、私たち自身の活動力能からこの私たちを切り離してしまうものとして、告発されなければならないのだ。自責の念(=良心の呵責)や罪の意識ばかりではない。死について考えることばかりではない。希望でさえ、安堵でさえ、そこにはなにがしかの無力感が含まれているのである。」

解説するところは特にないでしょう。
スピノザにとっては、希望や安堵でさえ軽蔑すべき観念であり、活動力能を低下させるものといわれていますね。
とりわけ希望については主著「エチカ」で下記のように定義しています。

「希望とは我々がその結果について幾分疑っている未来あるいは過去の物の観念から生ずる不確かな喜びである。」

そういう響きの塾はひょっとしたら駄目なんじゃないでしょうか。

今日は疲れてきたのでこのへんにしましょう。


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