最近、身体性!という言葉を聞く機会が本当に増えました。
今まで聞いた事もないこの言葉、AIが発展してきた事に関係しています。教育の現場だけではありません。
社会でも、ビジネスでも、AIの話題とセットで語られることが多い印象に感じます。
理由はシンプルで、
便利になりすぎたからこそ、身体を使って生きる感覚が急速に失われつつあるからだと思います。
AIが発達し、私たちの生活はどんどん便利になっています。
とても便利ですよね。でも、その便利さの裏側で、私たちが大事にするべきものが静かに削られている気がします。
何かを得ると何かを失う。とはこの事なのかもしれません。
身体性とは、五感を使い、身体を動かし、感情を動かし、人と関わること。
難しく聞こえるかもしれませんが、
要は自分の体でちゃんとリアルな世界や人とつながる力の事です。
歩く。話す。作る。触る。考えながら動く。
どれも当たり前のようで、実は人間を人間たらしめる、とても大きな要素です。
便利になるほど、この当たり前が削られていく。
自動運転。
SNS。
動画視聴。
自動翻訳。
ワンクリックで何でも済んでしまう仕組み。
これらは本当に便利で、私たちの日常の支えになっています。
ですが、身体性という観点で見ると、限りなくゼロに近づいてしまう。
運転する人と、助手席に座る人では、脳の働きも体の動かし方はまったく違いますよね。
同じように、畑で育てた野菜を収穫して食べるのと、コンビニでお弁当を買うのは、まったく別の体験です。
便利に慣れるほど、やらなければやらなくなるほど、思考力や判断力も鈍る。それが人間の原則です。
暖房の利いた快適な家にずっといたら、外の寒さを感じなくなるように、世界の温度が薄れていく。
教室でもよく感じます。
身体性の高い勉強をしている子は、伸び方が違う。
黙読だけで終わる学習は、身体性が低い。
声に出す、手を動かし、参考書を開き、問題を解き、人に説明する。これらは一気に身体性が上がる。
音読している子は記憶が残る。
図や表を書ける子は理解が深まる。
誰かに説明できる子は、知識が本物になる。
身体を使う学びは、やっぱり強い。
人と話すという行為は、言葉を投げ合うだけではありません。
表情。
声のトーン。
間の取り方。
相手の感情を読む力。
話の流れを想定する力。
そして自分の中の感情を整え直す力。
全部、身体性です。
LINEやZOOMでは物足りなさを感じる理由。
あれは情報は届いても、身体が届かないからです。
身体性のないコミュニケーションは、孤独になる恐れがあります。
身体を使わなくなると、だんだん世界が薄くなる。
考えない。
歩かない。
感じない。
人と会わない。
そうして社会の中で生きている実感が失われていく。
勉強に集中できない背景にも、
この身体性の低下は確実に関係していると感じます。
AIが進めば進むほど、身体で感じることの価値は上がっていく。
矛盾しているようで、これは確実だと思います。
料理をする。
掃除をする。
歩く。
自然に触れる。
家族と話す。
友達と遊ぶ。
勉強なら、書く・声に出す・説明する。
これらはAIでは代わりがききません。
身体性は、最後に残る人間の本質なのかもしれません。
便利さは敵ではありません。
ただ、便利さの中で人間らしさまで、無意識に手放してしまうのは違うと思うんです。
身体で感じる。
身体で動く。
身体でつながる。
その積み重ねが、私たちの実感や生きている感覚を支えている。
時代がどう進んでも、最後に頼れるのは自分の身体と感覚。
それを失わずにいたい。そんな願いを込めて、今日は書きました。