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2025.06.11

後醍醐天皇ってどんな人物なの?

後醍醐天皇の生涯(全体像)

  • 誕生・即位: 後醍醐天皇は正応元年(1288年)11月2日、後宇多天皇の第二皇子として生まれたjapanknowledge.com。幼名は尊治で、母は藤原忠継の娘・談天門院忠子であるjapanknowledge.com。延慶元年(1308年)に皇太子となり、文保2年(1318年)2月26日に践祚、同年3月29日に即位したjapanknowledge.com

  • 倒幕計画と元弘の乱: 天皇は早くから鎌倉幕府に反発し、実朝や公武連合の復興を目指したjapanknowledge.com。嘉暦元年(1326年)や元徳元年(1331年)にも倒幕計画を練ったが、幕府に露見して失敗したjapanknowledge.comjapanknowledge.com。元弘元年(1331年)には京都を脱出して笠置山に拠ったが、幕府軍に攻め落とされ、尊良・護良両皇子や楠木正成らは囚われ、後醍醐天皇自身も捕らえられて元弘2年(1332年)3月に隠岐へ流されたjapanknowledge.com。これが「元弘の乱」である。

  • 鎌倉幕府滅亡と建武の新政: 元弘3年(1333年)2月、皇子護良親王や楠木正成らの挙兵と諸国の悪党蜂起を受けて天皇は隠岐を脱出。伯耆国(鳥取県)の名和氏の援助で船上山に籠もり、「朝敵追討」の宣旨を発して諸国に挙兵を呼びかけたjapanknowledge.com。幕府方将軍・足利高氏(尊氏)は4月に天皇に応じ反幕府の旗を鮮明にし、5月7日には六波羅探題を破り、5月8日には新田義貞が上野国(群馬県)で挙兵して鎌倉へ攻め入り、21日に鎌倉幕府を滅亡させたjapanknowledge.com。6月5日、後醍醐天皇は京都に還幸し、持明院統の後伏見・花園両上皇や公家・寺社の所領安堵を行うとともに、討幕功労者への恩賞を授与したjapanknowledge.com。この時期、建武元年(1334年)1月29日には元号を「建武」に改め、新たな政治体制(建武の新政)を宣言して中央集権的な親政を開始したjapanknowledge.compref.nara.jp

  • 南北朝の成立と最期: 建武の新政は武士層の反発を招き、中先代の乱(1335年)や足利尊氏の挙兵などで混乱した。建武3年(1336年)10月、尊氏に迫られて朝廷を飛び出した天皇は、皇太子尊良親王(後村上天皇)や護良親王らを越前へ下向させた後、11月に神器を光厳天皇に移し、12月に吉野へ潜幸して「南朝」を樹立したjapanknowledge.compref.nara.jp。以後、吉野を拠点に北朝(京方)への京奪還を目指したが、延元2年(1337年)以降相次ぐ敗北で南朝は苦境に立たされた。こうしたなか天皇は陸奥守・北畠顕家を鎮守府将軍とし、親房とともに皇太子義良親王(後村上天皇)を従えて東北へ下向させようとしたが、航行中の暴風で顕家らが遭難し計画は頓挫したjapanknowledge.com。同年8月15日、天皇は義良親王に譲位し、翌16日に病没(延元4年/暦応2年8月16日、享年52)したjapanknowledge.comjapanknowledge.com。葬送の際、天皇は左右の手に『法華経』五巻と剣を持ち「たとえ南山に骨が埋もれようとも、魂魄は常に北方の都(京都)を望む」と遺言したと伝えられるjapanknowledge.com。陵墓は奈良県吉野郡吉野町の塔尾陵に置かれているjapanknowledge.com

政治的な活動

後醍醐天皇は親政志向が強く、鎌倉幕府倒幕と朝廷再興を目指して行動した。元弘の乱以降、幕府の支配が崩壊すると、天皇は院政を廃して皇位親政を実現しようとしたjapanknowledge.comjapanknowledge.com。持明院統の両上皇や公家・寺社の所領を安堵する一方、討幕功労者の地位安堵も行い、武士の動員に努めたjapanknowledge.com
建武の新政では、後醍醐天皇は延喜・天暦の治世(醍醐・村上両天皇の時代)を理想とし、律令復活的な政治を掲げたjapanknowledge.com。例えば「土地の安堵はすべて綸旨によらねば認めない」という個別安堵法を公布し、従来の慣習を一新しようとしたjapanknowledge.com。しかしこの政策は武士層に大きな反発を招き、結局は北条氏領に限って適用範囲を縮小し、元に戻した。こうした朝令暮改(法令の頻繁な改変)と恩賞給付の遅れが建武政府の自壊を招く原因となったjapanknowledge.com。そのほか中央には記録所・恩賞方・雑訴決断所など新設の官庁を置き、地方には国司と守護を併置して地方治安を維持させた。特に北陸・東北の防衛強化を図り、元弘3年10月には北畠顕家を東北鎮守府将軍に任じ、義良親王を奉じて多賀城へ下向させるなど、奥羽支配の体制(奥州将軍府)を整備したjapanknowledge.com
しかし、こうした新体制は諸国の反発を買い、若狭(福井県)の農民一揆や二条河原落書(1334年)など庶民・武士の不満が噴出したjapanknowledge.com。建武2年(1335年)には足利尊氏・新田義貞らが挙兵し(中先代の乱)、天皇方は尊氏の西走、湊川の戦いなどで敗北。ついには天皇は延元元年(1336年)10月に朝敵の汚名を避けて金剛寺(比叡山)に退去を余儀なくされ、その帰途に後光厳天皇に璽を移して(尊氏が光厳を擁立)、吉野へ逃れて南朝を開いたjapanknowledge.compref.nara.jp。京都に残った北朝(光厳・光明天皇)と対立し、南北朝時代が成立したpref.nara.jp

宗教・文化的な影響

後醍醐天皇は政治だけでなく文化・宗教面でも活動を残した。皇位に就いてからは日記『建武年中行事』『日中行事』を編纂し、自らの治世を記録させたjapanknowledge.com。また和歌をよく詠み、『李花集』や『新葉和歌集』などに自身の和歌を残しているjapanknowledge.com。これらの作品には、天皇自身の心境や忠誠心が色濃く表れており、後世の研究材料となっている。宗教面では、仏教儀礼や儀式にも関心を示したとされる。特に最期には左右に法華経を持って崩御したと伝えられるjapanknowledge.com。臨終の言葉「たとえ身は南山に埋もれても魂魄は常に北の都を望まん」とは、南北朝分裂の情勢下で京都(北朝)への忠誠を誓ったものと解釈され、後南朝(吉野朝廷)正統論の象徴的な言葉として後世に語り継がれているjapanknowledge.com。このように、後醍醐天皇の治世はその文化的成果や信仰とも深く結びついており、和歌や仏教的モチーフは彼のイメージ構築に寄与している。

家族関係・系譜

後醍醐天皇は大覚寺統(持明院統)の系譜に属し、祖父に亀山天皇、父に後宇多天皇を持つjapanknowledge.com。母は藤原忠継の娘・談天門院忠子であるjapanknowledge.com。皇后・中宮は西園寺禧子(後に皇太后)で、その他に藤原氏や二条氏の女御・更衣ら複数の后妃をもち、多数の皇子女をもうけた。実子には尊良・世良・護良・宗良・恒良・成良・義良・懐良(大覚)など8人の皇子と、皇女も8人がいる。とりわけ義良親王は後村上天皇として即位し、懐良親王は征西大将軍・日本国王となるなど、子孫も南北朝期の政局に深く関与した。なお、義良親王への譲位(1338年)直後に崩御したため、明仁天皇系の皇統図では後村上天皇に直接つながる血脈となっている(系譜参照japanknowledge.com)。陵墓は奈良県吉野郡吉野町の塔尾陵(「延元陵」)にあるjapanknowledge.com

評価・後世への影響

後醍醐天皇の事績は後世の歴史観にも大きな影響を与えた。特に南北朝時代においては南朝の正統性を主張する象徴とされ、また中世以降の尊王思想の文脈でも英雄視された。自身が編纂させた『建武年中行事』『日中行事』は建武政権の記録として貴重な史料となり、後世の研究者に利用されているjapanknowledge.com。和歌作品についても、逆境を詠んだものや理想を唱えたものが多く、平安・鎌倉の古典和歌の伝統を踏襲しつつ、武家政権への反発や王朝政治への憧憬が表れている。japanknowledge.comで示される崩御時の言葉は太平記にも伝えられ、吉野天皇(後村上)へ語り継がれた。一方、明治期以降は南朝の皇統が正統とされた関係で後醍醐天皇への評価が高まり、尊王攘夷運動などにも彼の精神が重ねられたとされる。吉野・塔尾陵は今も南朝ゆかりの聖地とされ、天皇崩御の地である比叡山金剛寺(現・璉璽寺)や所縁の社寺には南朝祭祀が残るpref.nara.jpjapanknowledge.com。現代においても、小説・時代劇等で「帝王」として描かれることが多く、建武の新政は理想化かつ悲劇化される傾向がある。

関連人物との関係

  • 楠木正成:討幕挙兵当初から後醍醐天皇に忠誠を誓い、笠置山・千早城などで奮戦した重臣。笠置山の落城時に後醍醐天皇の逃亡を助け、自らは最後まで抵抗して捕らわれた。元弘2年(1332年)隠岐への流刑後も、同年末から翌年にかけて護良親王(大塔宮)とともに河内・和泉を中心に再挙して幕府軍に抵抗し、挙兵機運を盛り上げたjapanknowledge.com

  • 足利尊氏:鎌倉幕府の守護将軍であったが、1333年に尊氏は後醍醐天皇に呼応し反幕府の軍を率いたjapanknowledge.com。尊氏は赤松氏と連合して六波羅探題を壊滅させるなど決定的な貢献を果たし、後醍醐天皇の建武政権成立に寄与したjapanknowledge.com。しかし1335年以降、政治的立場を巡って天皇と対立し、翌1336年には山陽道を進撃して京を占領、持明院統の光厳天皇を即位させた。結果、後醍醐天皇は吉野逃避に至り、尊氏は武家政権(室町幕府)基礎を築いたjapanknowledge.compref.nara.jp

  • 北畠親房:後醍醐天皇の有力なブレーンであり、元々は北畠顕家の弟にあたる公卿・学者。天皇親政の実現にあたって吉田定房・万里小路宣房らと並び登用され、御内書(内覧)や記録所など中央政務を補佐したjapanknowledge.com。親房は天皇とともに南朝に下り、『神皇正統記』を著して南朝正統論を主張、後村上天皇の教育にも関与した。子の北畠顕家(親房の甥)は多賀城に将軍府を置いて東北鎮圧に当たり、皇太子義良親王を伴って下向させたが、途中で遭難して果たせなかったjapanknowledge.comjapanknowledge.com

参考資料: 後醍醐天皇については国史大辞典などで詳細に論じられており、本稿ではその主要事項をまとめたjapanknowledge.comjapanknowledge.comjapanknowledge.compref.nara.jp

引用

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後醍醐天皇|国史大辞典・世界大百科事典|ジャパンナレッジ

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後醍醐天皇と吉野 | 深掘り!歴史文化資源 | 奈良県歴史文化資源データベース「いかす・なら」

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