
李舜臣(イ・スンシン)の生涯と功績
年代 | 主な出来事 | 出典 |
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1545年4月28日 | 京畿道開豊(現在の開城)で生誕。李氏朝鮮の将軍となる。 | |
1576年 | 武科(軍事官僚試験)に及第し訓練院奉事となる。 | |
1591年 | 柳成龍の推薦で全羅道水軍左水使(左道水軍節度使)に任命。 | |
1592年 | 文禄の役(秀吉の朝鮮侵略)開戦。李舜臣は釜山沖・巨済島付近(玉浦)で藤堂高虎らを襲撃し、続いて閑山島海戦で鶴翼陣を用いて脇坂安治らの艦隊を撃破。 | |
1597年 | 慶長の役。元・慶尚道水軍統制使・元均が漆川梁海戦で大敗しほぼ全滅。朝鮮水軍は壊滅状態となり、李は司令官に復帰して壊滅した水軍を再建(この時点で艦艇は12隻のみ)。日本軍は約300隻で西上を計画。 | |
1597年9月16日 | 鳴梁海戦。李舜臣はわずか12隻(諸史料では12~13隻)で鳴梁海峡に布陣し、潮流と狭隘な海峡を利用して日本艦隊を撃破。韓国ではこの戦いを「鳴梁大捷」と称し、少数の朝鮮水軍が日本軍に勝利した戦いと認識される。 | |
1598年11月19日 | 露梁海戦(ノリャン海戦)。李舜臣は明軍水師と協力して日本艦隊を挟撃。勝利目前の郭山浦(観音浦)の戦いで李舜臣・明軍将軍・鄧子龍が戦死。李らは戦後、韓国で民族的英雄とされた。 | |
1604年 | 朝鮮宣祖が李舜臣に「孝忠仗義迪毅協力宣武功臣(忠武公)」の諡号を追贈。 |
玉浦海戦(1592年5月): 李舜臣は慶尚道水軍を温存しつつ、釜山西方で藤堂高虎・堀内氏善ら中規模の日本艦隊を夜襲し、帰路にも追撃して戦果を挙げたja.wikipedia.org。
閑山島海戦(1592年8月): 李舜臣は囮の船で日本軍・脇坂安治隊を鳴梁海峡の強い潮流へ誘い込み、鶴翼陣(鶴翼状に並べる艦隊編成)で囲撃して完勝したja.wikipedia.orgjapanese.joins.com。この戦いで日本水軍約73隻を撃破し、補給線を遮断したja.wikipedia.org。
亀甲船の運用: 李舜臣は『乱中日記』などで「亀甲船を考案した」と記しており、板屋船より平底で安定した装甲艦を改良・運用して日本軍補給路をかく乱したと伝わるzh.wikipedia.org。ただし、朝鮮王朝実録にも15世紀(太宗13年=1413年)の記録に亀甲船の記載がありja.wikipedia.org、正確な発明者は不明である。いずれにせよ、彼の時代には亀甲船を駆使して日本側の兵站を徹底的に襲撃した。
鳴梁海戦(1597年9月16日): 李舜臣率いるわずか12隻(諸説あり)に対し、日本は主力艦隊約133隻に援護船を加え計300隻規模で攻勢を仕掛けた。李舜臣は鳴梁海峡の潮汐と狭隘な地形を生かし、先制砲撃で日本艦を撹乱したzh.wikipedia.org。日本艦は尖底の船で潮流にあおられ砲撃が不安定になる一方、李軍の平底船は安定して命中率が高かった。さらに海峡に張った鋼索によって日本艦は大混乱に陥り、李の隙をついた反撃で日本艦隊を壊滅させたzh.wikipedia.org。韓国では鳴梁海戦を「少数の朝鮮水軍が大勝した海戦」として位置付けているja.wikipedia.orgzh.wikipedia.org。
露梁海戦(1598年11月19日): 豊臣軍退却期の最終海戦。李舜臣は明・朝鮮連合艦隊の伏兵の一員として参加し、勝利の直前に戦死したzh.wikipedia.org。この死闘により日本軍は大敗し、文禄・慶長の役は朝鮮・明連合軍の勝利で終結した。
韓国500ウォン紙幣に描かれた李舜臣将軍と亀甲船。李舜臣は亀甲船を巧みに運用し、日本軍の補給路を断ったと伝えられるzh.wikipedia.orgja.wikipedia.org。
鶴翼陣: 閑山島海戦では、李舜臣は韓国艦隊を鶴翼の形に展開し、日本艦隊を左右から挟み撃ちにして包囲したjapanese.joins.com。李の艦隊は「海上に城を築くが如く」敵を囲み、集中砲火で瞬く間に壊滅させたjapanese.joins.com。
潮流・地形の利用: 鳴梁海戦では刻々と変化する潮流と極端に狭い海峡幅(約294m)を徹底活用したzh.wikipedia.org。隠伏と囮を組み合わせて敵を狭所に誘い込む戦法で、日本軍は射撃が不利となり混乱に陥ったzh.wikipedia.org。また、玄武島海戦などでも奇襲・伏兵・夜襲など柔軟な戦術を用いて、数で勝る敵を撃破した。
砲戦重視と防御力: 李舜臣の主力艦である板屋船(平底船)は巨砲を搭載し対艦火力が強い一方、防御装甲を備えていた。攻撃力と防御力を両立させ、敵艦の突入を許さない布陣を敷いた点が評価される。ほか、彼は海戦中に部下の配置・整列・射撃命令を的確に行う指揮能力を発揮し、科学的かつ合理的な作戦運用で勝利に導いた。
不屈の士気: 李舜臣は「臣戰船、尚有十二…微臣不死、則不敢侮我矣(我が戦船はまだ十二あり…朕生きておれば必ず敵は侮れぬ)」と檄し、部下を奮励したと伝えられるzh.wikipedia.org。少数精鋭で勝機を見いだす卓越した兵法眼と、最後まで士気を維持した精神力も彼の軍才の一端である。
韓国国内での評価: 李舜臣は韓国で「救国の英雄」「国民的英雄」として崇められているkntv.jp。韓国では釜山・光州など各地に李舜臣像が立ち、ソウル光化門広場や釜山タワー近くにも銅像があるほか、「忠武路」など彼にちなんだ地名もあるpress.moviewalker.jp。大韓民国建国以降、忠武公(忠武武功臣)の諡号は英雄称号として広く知られる。韓国のメディアでは、2004–05年のテレビドラマ『不滅のイ・スンシン李舜臣』(主演:キム・ミョンミン)kntv.jpや、映画『鳴梁(Roaring Currents、2014年)』『閑山:龍の出現(2021年)』などで生涯が描かれ、世代を超えてその生涯が語られている。
国際的評価: 元敵国であった日本でも李舜臣は高く評価される。韓国の専門家によれば、1902年の日本海軍の教科書に李舜臣の戦術が紹介され、「潮流を応用して毎回勝利した」と賞賛されているdonga.com。日本の代表的な海軍戦略家・佐藤鐵太郞も1930年に「東西両大海将中でも第1人者」と称賛したdonga.com。著名な作家司馬遼太郎も朝鮮訪問記で李舜臣の「謙虚さと政治手腕」を讃えているpress.moviewalker.jp。このように、東西を問わず海上の名将として評価されている。
乱中日記(난중일기): 李舜臣が1592年1月から1598年11月まで兵站・戦況・個人的所感をつぶさに記した日記で、現在7巻本が伝存する。内容は毎日の天候・地形・戦闘状況などが詳細に書かれ、司令官の実戦記録として世界的にも類を見ない貴重な資料であるjapanese.visitkorea.or.kren.unesco.org。2013年にユネスコ世界記憶遺産に登録されen.unesco.org、韓国の国宝(第76号)にも指定されているjapanese.visitkorea.or.kr。 李舜臣自身が記した戦時日記「乱中日記」の写本(写真は国宝第76号指定のもの)。
朝鮮王朝実録: 『朝鮮王朝実録』には李舜臣自身についての簡潔な記述があり、たとえば文禄・慶長の役の経緯が条文で触れられている。また、15世紀の太宗実録(1413年)には「龟船(亀甲船)」についての記述が見られja.wikipedia.org、朝鮮にはすでに亀甲船が存在したことがわかる。李舜臣が自身の役目について朝廷に上奏した「上疏」や、同時代の官僚・柳成龍の『懲毖録』などにも当時の事情が書き残されている。
その他の資料: 李舜臣の伝記的資料としては、朝鮮時代後期に編纂された『忠武公全書』があり、乱中日記をはじめ彼に関する史料がまとめられているほか、各種軍記・地誌などにも逸話が散見される。李舜臣の生涯と戦績は韓国のみならず世界史的に研究されており、多くの史書・研究書に取り上げられている。
参考資料: 李舜臣将軍に関する一次史料・公刊史料および学術文献・観光サイト等zh.wikipedia.orgja.wikipedia.orgzh.wikipedia.orgja.wikipedia.orgja.wikipedia.orgjapanese.joins.comdonga.compress.moviewalker.jpjapanese.visitkorea.or.kren.unesco.orgなど。各資料は李舜臣の生涯・戦績・戦術・評価を裏付けるものである。