教室ブログ

2022.09.16

【心の財産】

こんにちは。WAM河北校です。朝晩は寝苦しさが少し緩んだとは言え、日中はまだまだ残暑が厳しいです

ね。暑さにばててはいないでしょうか?また、私事ですが、先週お話し致した「中秋の名月」何とか満

月の瞬間を星空に目視する事が出来ました(笑)満月一つ見ただけで、何某かの「見返り」が有るわけでは

無いですが、しばらく台風のシーズンが続く事もあり、「自然」を意識する事により、自身に「利」

(「理))を引き付ける事は多少なりとも有ると思っております。「味方に付ける」という言い方は、おこ

がましいでしょうけれど(汗)明日から3連休が2回断続的にありますから、今年前半の3連休は「どのよ

うな活動を」するかを、「自分で考えてみる習慣」が廃れない様にする意味で、「自然と付き合う・自然を

意識する」事は、「デジタル」・「便利さ」に反する部分は有りますが(笑)今の時代でも残るべき「教

養」なのではないかと思います。さて、実はこちらが私、通算最後のブログになります。この度、WAMを離

れる事と相成りました。例え少しでもご清覧頂けた方いらっしゃいましたらば、私の言葉に触れて頂き、感

謝申し上げます。「文章を習慣的に考え・書き続ける」事を毎週金曜日に行っていたら、知らず知らずの内

に5年経ってしまいました(汗)。知らず知らずの内に文字数も増え、話題も広がり、誰かと話す時も、恐

れを殆ど感じず言葉が「すらすら」と出て来る様になりました。「すらすら」と申しましても、こちらが話

すより、「聴く」方が多くなった気が致します。毎週このブログの文面を完成させる「所要時間」も、今現

在では長くて1時間半程です(誤字脱字もたまにあるのっですが・・・)。当初、話すにも、書くにも言葉

が出て来ず、考えあぐねていた自分が嘘の様です。自画自賛に感じられた方がいらっしゃいましたらば申し

訳ありません。「言葉(遣い)の大切」さを身をもって体感した5年間でした。それは、「自身の都合中

心」では無く、あくまで「相手の感じ方・受け取り方中心」の言葉(遣い)の大切さです。後者では無い

と、絶対に「聴き方」も、それに呼応する「話し方」そして「考え方」も身に付かない!そう感じます。そ

れは、詰め込む形になってしまいますが、「営業の魔法」と言う本から学んだことでもあります。当初、た

だの「業務命令」が私自身の「習慣」になりました。その「習慣」から、波及する様に、「読書」の習慣、

「暦や自然」を意識する「習慣」、「体調(体の仕組みを含む)」を意識する習慣、「客観的(自分がどう

見られているか?)」な「言葉遣い」を意識する「習慣」、「時間」を「意識」する習慣、「一本調子な対

応になってはいけない」と言う「習慣」etc…色々な「習慣」を授けてくれました。人に依れば「ただの蘊蓄

(うんちく)」と感じられても仕方ないかとは思われますが、私にとっては、この5年間のブログ執筆活

動は「心の財産」になりました。言い換えれば、「財産」になった「出会い」も有りました。私とお時間を

共有して下さった皆様に、感謝申し上げます。最後になりますので、あと少しだけ、「言葉遣い」に関して

お話しさせて下さい。中2国語の教科書で、「黄金の扇風機」と言う作品が有ります。私の、この作品の問

うているテーマを一言で申すと「美しさ」を感じる「基準」や「多様性」です。以前、評論作家の小林秀雄

さん

の「美しい花はある。花の美しさと言う様な物は無い(ママ)」の一文を引用致しました。「その人」が

「美しい」と感じれば「(その人にとっては)美しい」ですが、人に依っては「その人」の持つ「基準」に

合わない、もしくはそれを満たさない為「美しくない」と見なされることが有る」可能性も有ります。ひと

つの物に対するそれぞれの「見方」が違う事も「多様性」と解釈出来るでしょう。「美しい」と感じる「感

情」自体は「共通」しているのですが、「美しさ」を「限定する」とすると、もはやそれは半ば「無限」で

切りがないのですね。ですが、「黄金の扇風機」本編では、「国」や「環境」で「基準」に違いが或る事

(つまり、「美しさ」を「地域的」に「限定」する事は、現在ではインスタグラムやツイッター、LINE等、

通信技術の発達による「一つの価値観の共有に依る支配」を防ぐ為の防波堤になるとも述べられて居りま

す。ですが、私の見解も含めれば、「読書」の映像版の如く、「一般人」の「私生活」の一端が垣間見れる

様になり、1人1人が固有に求める「知識」の「享受」が受けられる場の一つになっている事も否定出来な

いと考えるのです。いきなりパスを渡す様で、申し訳ないのですが、「与えられた環境」と「自身で考える

事」と「与えらえる情報」のバランスをどうとって行かれるかは、やはり「自身のリテラシー」次第だと思

います。「見た目」で決めてしまうと言うのは「危険」と言う事も有ります。「多様性」に関して申せば、

最近私立の学校でも、女子生徒のジャージと言う物も拝見しましたし、スカートの着用願望のある「男子生

徒」も、最早可能性として否定出来ないのです。「男子生徒」と言うのも、「生物学的」な性別が「男子」

と言う意味です。

「性自認(せいじにん)」言う言葉が有り、「自身の性別をどう判断しているか?という「意識」を指しま

す」可能性として、「性自認」が「女性」なのか?もしくは、「女装してみたい!」と言う願望が単に有る

だけなのか?もしくは所謂「LGBTQ」のQの部分、「自分の性自認が未だ分からないからハッキリさせる為に

スカートを穿いてみたい」と言う願望が有るからなのか?「多様性」の観点から色々な可能性が考えられる

のです。当然「女子生徒」の場合も「逆も然り」です。「見た目」が「男の子」だから「くん」付けで呼

ぶ、「見た目」が「女の子」だから「ちゃん」づけで呼ぶ、敬称の付け方ひとつで「(心の中で)誤解」さ

れたり「傷つく」可能性が出て来ている時代だと考えております。「多様性」故の表現方法の順守ですね。

あくまで私自身の考えですが、数年前から生徒さんに対する敬称を性別・学年関係なく「さん」付けで呼ん

でおります。それが正しいか否かは分かりませんが、私自身の「考え」及び「結論」です。あからさまに距

離を縮める意味で「呼び捨て」にするのも、「言葉遣い」の観点から止めております。例え「呼び捨て」す

るにしても、自身の振る舞い次第で「呼び捨て」にしていい時がこちらから距離を縮めようとしなくてもい

ずれ「相手次第」でやって来ます。あとは、「時」と「場合」の「遵守」でしょう。「一般人」の「私生

活」が「見える化」したと言う事は、その様な個々の課題も浮き彫りになって来ているとも受け取れると思

うのです。「勉強」すると一口に言っても「何を?」となればそのテーマを絞るのにも一苦労だと思いま

す。「知らない事」が多すぎるのですね。歯が浮くような言い回しで申し訳ないのですが、それ故、例え相

手から「先生」と呼ばれても、「私」自身の一人称を「先生」と申すのは恐れ多くて、もう出来ないかな、

と思っております。恐らくこれからも。何回もしつこいですが、「言葉」って本当に大事ですよ(笑)それ

一つで、その人の「人格」が見え隠れします。そういう意味でも「勉強(し続ける)」事は大切です。こち

らから、距離を縮めようとしなくても、「自分の振る舞い一つ次第」で、かつ、「相手から」「近づいてく

れる事」「質問される事」の「積み重ね」によって「自分を承認」してくれる事の有難さが、何よりの「証

拠」「正しさ」だと思っております。総合して6年半でしたが、このブログを通して、お金では絶対に買え

ない沢山の「心の財産」を頂きました。本当に、本当に、本当に有難うございました。最後のブログが一番

長くなってしまいました。最後の一言やはりこちらで締める事になりますが、「体調にはくれぐれも気を付

けて下さい」改めまして、本当に、本当に、本当に有難うございました。  木下 龍治

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