教室ブログ

2019.02.20

河東碧梧桐と高浜虚子(前編)

個別指導Wam野口校の小藤です。

1873年2月26日に河東碧梧桐が、翌年の2月22日には高浜虚子が生まれました。高浜虚子は「桐一葉日当たりながら落ちにけり」の句が教科書に載っていることなどから、名前は聞いたことがあるという人が多いのではないでしょうか。正反対の俳句スタイルを提唱し対立した二人ですが、二人は現在の愛媛県松江市出身であり中学校では同級生であるなど共通点もあります。二人の人生には、同郷の先輩であり師である正岡子規が大きく関わっています。

河東碧梧桐は本名を河東秉五郎(へいごろう)といい、松山藩の藩士で藩校の教授をしていた河東坤の五男として生まれました。碧梧桐が7、8歳の頃、玄関前の中庭で父と一年間かけて生木を枯らす薪の貯蔵法について問答している人がいました。この人が13、4歳頃の子規その人でした。子規と会ったのはこれが初めてですが、以前より父から話を聞かされていた碧梧桐はすぐに子規だと分かったと回想しています。碧梧桐の父の先輩にあたる松山の儒学者・大原観山の孫が子規で、碧梧桐の3番目の兄が子規と無二の友で好敵手でした。碧梧桐はかなり早いうちから子規と出会っていましたが、それによってすぐに俳句の道を志すことはありませんでした。

高浜虚子は松山藩士の池内(いけのうち)政忠の五男として生まれ、俳号である「虚子」という名前は本名の「清(きよし)」に由来します。虚子は1888年に伊予尋常中学校に入学しました。同年に碧梧桐も入学しています。ある夏の夕方、中学生の虚子たちは松山城近くの錬兵場で野球をしていると東京がえりの書生たちがやってきて、バットとボールを借りました。その中に、暑い夏であるのに手首をボタンで留めるようなシャツを着、兵児帯を緩く巻き帯にした、ほかの書生に比べてあまり田舎者の尊敬に値しないような風采だが、自分がこの一団の中心であるようにバッティングを始めた人がいました。この時のバッターが子規であったようだと虚子は回想しています。

中学を卒業する一年半ほど前、虚子は森鴎外の「舞姫」や幸田露伴の「一口剣(こうけん)」などを読み、自分も小説家になることを志しました。また、同級生であった碧梧桐も同じような考えを持っていたことから親しくなっていきます。さらに、碧梧桐の紹介で子規と文通を始めました。1891年10月子規に「虚子」という俳号を授けられ、翌年の8月には子規の家でたまたま松山に来ていた大学生の夏目漱石とも出会っています。

 

後編はこちらです。

河東碧梧桐と高浜虚子(後編)

 

 

 

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