教室ブログ

2019.03.06

河東碧梧桐と高浜虚子(後編)

個別指導Wam野口校の小藤です。

今回はこの続きになります。

河東碧梧桐と高浜虚子(前編)

 

京都の第三高等学校(現在の京都大学)に虚子と碧梧桐は進学しました。この頃の虚子と碧梧桐はかなり仲が良く、他の下宿生がいるのにも関わらず、寝食を共にする下宿に「虚桐庵」と名付けていました。三高の学科改変によって1894年に碧梧桐と共に第二高等学校に転入するも中退、上京して子規の仕事を手伝うことになりました。189年に長く生きることができないことを悟った子規に後継者となるように虚子は言われます。放蕩生活を送り、子規に束縛されることを恐れた虚子はこれを拒否しました。これがいわゆる「道灌山事件」です。

1898年に虚子は子規より雑誌『ほとゝぎす(ホトトギス)』を引き継ぎ、主宰しました。子規は、有情の人間を見るように自然を見る虚子と無心の草木を見るように人間を見る碧梧桐の俳句スタイルから「虚子は熱き事火の如し、碧梧桐は冷やかなる事氷の如し」と評し、二人は「子規門下の双璧」と謳われるようになりました。1902年9月19日に子規が没し、碧梧桐は新聞『日本』の俳句欄選者を継ぎました。子規を中心に構成されていた俳句界は、虚子のホトトギス派と碧梧桐の日本派に分かれることになりました。この頃の二人の作風は、碧梧桐はことば遣いに工夫を凝らし写実主義を徹底させ、虚子は平明な用語を使い抒情・主観性を重んじるようなものでした。この頃、『ホトトギス』は1905年1月から掲載を始めた漱石の「吾輩は猫である」が大いに好評を博しました。これを見た虚子は、元来小説家を目指していたこともあり、その後俳句の創作をやめて小説を書くようになりました。同じく1905年頃より、碧梧桐は従来の五七五の形にとらわれない新傾向俳句を唱えるようになり、1906年から新傾向俳句を宣伝するため全国行脚を始めました。

大正元年頃の俳壇では尾崎放哉などに見られるように、新傾向俳句から更に進み、季語を使わない、定型である17字に合わせない自由律などが肯定され、この風潮を受けて虚子は1913年に新傾向に対抗するため俳壇に復帰することを決めました。この時に詠まれた句が「春風や闘志いだきて丘に立つ」です。虚子は、俳句は伝統を尊ぶ文芸であり、季語を用いて五七五調で詠まれるべきであると主張しました。自らを旧守派とし、碧梧桐ら新傾向の俳人たちと対立することになります。1927年に虚子は「客観写生」や春夏秋冬四時の移り変わりによっておこる現象を諷詠する「花鳥諷詠」の理念を掲げました。この理念は広く俳壇に受け入れられるようになりました。それまでの俳壇は新傾向が席巻していましたが、虚子が俳壇に復帰して以降はホトトギス派が主流になっていきます。これは有季定型という形のわかりやすさも一因であるといえるでしょう。自由律俳句は定型ではなかったり、季語が入っていなかったりします。すると、その作品が俳句なのか、詩なのか、判別しにくくなってしまうのです。現在、俳句といえば季語を使い、17字の定型で詠まれるものだと教えられます。これは虚子の唱えた俳句が広く受け入れられた結果であるといえるでしょう。

 

今回の内容に関係する作品

河東碧梧桐『子規を語る』http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210935/161

高浜虚子『子規居士と余』https://www.aozora.gr.jp/cards/001310/files/47740_37658.html

 

 

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