教室ブログ

2019.02.06

節分の起源について

個別指導Wam野口校の小藤です。

節分も終わり、立春を迎え暦の上では春になりました。今回は節分についてお話しようと思います。

節分は追儺(ついな)という宮廷行事を源流としています。追儺とは、旧暦12月30日の大晦日に行われ、鬼を払う儀式のことです。この儀式は中国の宮中の行事である大儺(たいな、おおな)の風習を導入したもので、新年(立春)の前日である大晦日に行われていました。この文化は日本が大陸文化を取り込む中で伝わり、当初は中国と同じように大儺と呼ばれていました。

中国の儺文化は紀元前16~8世紀の殷、周時代に成立したとされます。さらに起源をたどると、古い龍山文化、良渚文化時代の玉石器にその痕跡を見ることができるようです。3月、8月に儺、12月に大儺の儀式が行われていましたが、漢の時代に「一年の終わりに疫や鬼を追い払い、ゆく年を送り、くる年を迎える」という意味が加わり、除夜に行われる大儺が多くなっていきました。行事を執り行う方相氏(ほうそうし)と数多くの黒い衣服をまとった侲子(しんし)たちが皇帝の前で疫鬼たちを恐れさせる内容の舞をおこない、その鬼たちを内裏の門から追い出して都の外へと追い払っていました。また、儺は民間でも行われ、その痕跡は漢代の畫像石や畫像磚に見ることができます。

『新訂増補故實叢書・巻31』によると、日本の儺の源流は中国にあり、豆をまいて鬼を追い払うなどの儀式はすべて漢の時代の大儺に倣ったものであるようです。鬼を追うということから、大儺は次第に追儺と称されるようになりました。さらに、平安時代には行事を執り行うはずの方相氏・侲子たちが鬼に見立てられるようになっていきました。

追儺は鬼を払うという内容から、節分の原型と考えられていますが、豆をまくという儀式は追儺の儀式にはないものでした。節分に豆まきが行われたことが最初に見られるのは南北朝時代以降になります。『花営三代記』の応永28年(1421)の節分では、「天晴。節分大豆打役、昭心カチグリ打。アキノ方申ト酉ノアイ也。アキノ方ヨリウチ、アキノ方ニテ止」とあり、節分に大豆や搗栗を恵方に向かって巻いている風習があったことがわかります。さらに、『臥雲日件録』の文安4年(1447)12月22日の記述には「明日立春、故及昏景家毎室散敖豆、因唱鬼外服内四字」とあり、この頃には「鬼は外、福は内」と唱えていたことがわかります。

簡単にですが、節分の起源について歴史的な話をメインにして書いてみました。社会という科目の面白さが分からない、勉強方法が分からない、という生徒は大勢います。これは当然の話で、中学や高校で学習する社会の内容の多くは基礎知識です。歴史や地理など社会科目の面白さというのは、その基礎知識を足掛かりに一歩踏み込んだところにあると思っています。普段何気なく行っている年中行事がなぜそのような形で残っているのか、どのような意味を持っていたのか、というのは誰しもが一度は考えることではないかと思います。調べてみると、自分の知らなかったことや予想と違うようなことが分かって面白いかもしれません。

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