
こんにちは!個別指導WAM堺市駅前校です。
今回は「1950年代に何が売れたのか?」を通して、日本がどんな社会だったのかを一緒に見ていきたいと思います。
また、この1950年代は、私の両親が子どもとして日本の復興とともに育った時代でした。
いったいどんな時代だったのか。少しでもイメージできるように、この時代を見に行きましょう。
1950年代の街を歩くと、そこには不思議な混在が見られます。
木造の家屋、引き戸の商店、赤提灯。
そのすぐ隣に、「テレビあります!」「冷蔵庫セール中!」と書かれた洋風の看板。
古き良き日本と、新しい生活文化が共存していた――
それが、この時代の最大の魅力です。
📷 映画「ゴジラ」が上映され、子どもたちはフラフープで遊び、主婦たちはテレビやお店のショーウィンドウを見入っていた…。
そこにあったのは、まだ手に入らない未来を、街角で眺める人々のまなざしだったのです。
「テレビ・洗濯機・冷蔵庫」――これらが売れたのは、ただ便利だからではありません。
力道山のプロレス中継は、町中の人が一緒に見た。
家族がひとつの画面に向かい、同じ感動を共有することで、バラバラだった家族の再生が始まった。
母親の家事労働が激減。
「家庭の中の女性の自由」の象徴だったとも言えます。
食文化が豊かになり、買い物のスタイルも変化。
家族で食卓を囲む時間が増え、「家族団らん」が生まれた。
これらの家電は、単なるモノではなく、生活の価値観そのものを変える装置だったんです。
戦後の傷が癒えない中で、美空ひばりの歌は、人々の“感情の受け皿”でした。
りんごの花が風に舞うように、
静かに、でも力強く歌われる別れの歌。
ひばりの歌声は、戦争で家族を失った人々の「悲しみ」を静かに癒してくれた。
そして、
これは、恋愛の自由を取り戻した日本人の象徴でもありました。
物資ではなく時間や気持ちを誰かに使える、そんな余裕が戻ってきた証拠です。
1954年の映画『ゴジラ』は、単なる怪獣映画ではありません。
水爆実験で傷ついた海から現れた巨大怪獣・ゴジラが、東京を破壊する。
それは、戦争の記憶、広島・長崎の記憶、そして第五福竜丸の事件…。
科学の暴走への恐怖と人間の責任がテーマになっていました。
特撮の迫力に子どもたちは興奮し、大人たちはその背後にあるメッセージに黙り込む。
エンタメと社会批判の融合という、日本映画史でも特別な位置にある作品でした。
1958年、ついに「即席ラーメン」が登場。
たった2分でできるラーメン――
忙しいお母さんでも、子どもでも、誰でも食べられる。
「貧しくても、うちでも温かいラーメンが食べられる」
これがどれだけ希望だったか。
チキンラーメンは、“幸福の平等”を象徴する食べ物だったとも言えます。
『鉄腕アトム』(1952年〜)は、科学と人間の関係を描いたSFマンガ。
未来のロボット少年が、「心」を持つとは何かを問いかける。
戦争で科学が“人を殺す道具”になったあとに、
「科学は人を救える」と語ったのが手塚治虫でした。
彼が見せた未来は、ただ便利な社会ではなく、優しい世界。
売れたモノには、その時代の「願い」や「痛み」が映っています。
テレビ=つながり
洗濯機=女性の自由
ゴジラ=過去への反省
チキンラーメン=等しく満たされる未来
つまり、「売れる」というのは単にモノが動いたのではなく、
人の気持ちが動いたことの証拠なんです。
今は便利な時代だけど、
誰かとご飯を食べること、歌を口ずさむこと、家族で笑うこと――
それは1950年代と同じ、大切なことです。
モノが進化しても、人の心が求めるものは、そんなに変わらないのかもしれませんね。
私が過ごした、1980年だと両親が味わった1950年代いったい何が違うのか。