教室ブログ

2025.06.10

1950年代ってどんな時代②

こんにちは!個別指導WAM堺市駅前校です。
今回は「1950年代に何が売れたのか?」を通して、日本がどんな社会だったのかを一緒に見ていきたいと思います。

また、この1950年代は、私の両親が子どもとして日本の復興とともに育った時代でした。

いったいどんな時代だったのか。少しでもイメージできるように、この時代を見に行きましょう。

🏙️街並みに現れる未来の兆し

1950年代の街を歩くと、そこには不思議な混在が見られます。

木造の家屋、引き戸の商店、赤提灯。
そのすぐ隣に、「テレビあります!」「冷蔵庫セール中!」と書かれた洋風の看板。

古き良き日本と、新しい生活文化が共存していた――
それが、この時代の最大の魅力です。

📷 映画「ゴジラ」が上映され、子どもたちはフラフープで遊び、主婦たちはテレビやお店のショーウィンドウを見入っていた…。

そこにあったのは、まだ手に入らない未来を、街角で眺める人々のまなざしだったのです。

📺三種の神器と“家族の再構築”

「テレビ・洗濯機・冷蔵庫」――これらが売れたのは、ただ便利だからではありません。

◎テレビ(白黒)

  • 力道山のプロレス中継は、町中の人が一緒に見た。

  • 家族がひとつの画面に向かい、同じ感動を共有することで、バラバラだった家族の再生が始まった

◎洗濯機

  • 母親の家事労働が激減。

  • 「家庭の中の女性の自由」の象徴だったとも言えます。

◎冷蔵庫

  • 食文化が豊かになり、買い物のスタイルも変化。

  • 家族で食卓を囲む時間が増え、「家族団らん」が生まれた。

これらの家電は、単なるモノではなく、生活の価値観そのものを変える装置だったんです。

🎶音楽は心のリハビリ

戦後の傷が癒えない中で、美空ひばりの歌は、人々の“感情の受け皿”でした。

🎤美空ひばり「リンゴ追分」(1952)

りんごの花が風に舞うように、
静かに、でも力強く歌われる別れの歌。

ひばりの歌声は、戦争で家族を失った人々の「悲しみ」を静かに癒してくれた。

そして、

🎵「有楽町で逢いましょう」(フランク永井)

これは、恋愛の自由を取り戻した日本人の象徴でもありました。
物資ではなく時間や気持ちを誰かに使える、そんな余裕が戻ってきた証拠です。

🎥ゴジラに込められた怒りと祈り

1954年の映画『ゴジラ』は、単なる怪獣映画ではありません。

水爆実験で傷ついた海から現れた巨大怪獣・ゴジラが、東京を破壊する。

それは、戦争の記憶、広島・長崎の記憶、そして第五福竜丸の事件…。
科学の暴走への恐怖と人間の責任がテーマになっていました。

特撮の迫力に子どもたちは興奮し、大人たちはその背後にあるメッセージに黙り込む。
エンタメと社会批判の融合という、日本映画史でも特別な位置にある作品でした。

🍜チキンラーメンと誰でも幸せになれる時代の始まり

1958年、ついに「即席ラーメン」が登場。

たった2分でできるラーメン――
忙しいお母さんでも、子どもでも、誰でも食べられる。

「貧しくても、うちでも温かいラーメンが食べられる」

これがどれだけ希望だったか。
チキンラーメンは、“幸福の平等”を象徴する食べ物だったとも言えます。

📚手塚治虫が子どもたちに託した未来

『鉄腕アトム』(1952年〜)は、科学と人間の関係を描いたSFマンガ。
未来のロボット少年が、「心」を持つとは何かを問いかける。

戦争で科学が“人を殺す道具”になったあとに、
「科学は人を救える」と語ったのが手塚治虫でした。

彼が見せた未来は、ただ便利な社会ではなく、優しい世界

🧠なぜ「売れたモノ」で時代が見えるのか?

売れたモノには、その時代の「願い」や「痛み」が映っています。

  • テレビ=つながり

  • 洗濯機=女性の自由

  • ゴジラ=過去への反省

  • チキンラーメン=等しく満たされる未来

つまり、「売れる」というのは単にモノが動いたのではなく、
人の気持ちが動いたことの証拠なんです。

🎌今を生きる私たちへ

今は便利な時代だけど、
誰かとご飯を食べること、歌を口ずさむこと、家族で笑うこと――
それは1950年代と同じ、大切なことです。

モノが進化しても、人の心が求めるものは、そんなに変わらないのかもしれませんね。

私が過ごした、1980年だと両親が味わった1950年代いったい何が違うのか。

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