
こんにちは。 個別指導WAM堺市駅前校です。 今回は、太平洋戦争の末期、日本国内の子どもや若者たちにどんなことが起きたのか——「勤労動員」「学徒出陣」「学童疎開」について、できるだけ丁寧に伝えたいと思います。
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💥戦争が日本の家庭に迫る
1941年12月、日本軍はアメリカ・ハワイの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まります(※日本では大東亜戦争とも呼ばれました)。 最初は勢いのあった日本軍ですが、
➡ ミッドウェー海戦(1942年) ➡ ガダルカナル島の戦い ➡ サイパン陥落(1944年)
と敗戦が続き、次第に連合国(アメリカ・イギリスなど)の基地が日本本土に近づいてきました。
さらに、東南アジアとの連絡も途絶え、石油や食料などの物資も手に入らなくなり、国内の生活はどんどん苦しくなっていきます。
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👷勤労動員(きんろうどういん)とは?
戦争が長引き、大人の男性たちの多くが兵士として戦地に送られるようになると、国内での労働力が不足しました。
そこで、【中学生・高校生・女学生】などの若者たちが学校を離れて、兵器工場や軍需工場に働きに行くようになります。 これが「勤労動員」です。
・爆弾の部品を作る ・飛行機の部品を磨く ・軍服を縫う
……そんな作業に1日中追われる毎日。 安全対策も十分でなく、命に関わる事故もありました。
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🎓学徒出陣(がくとしゅつじん)とは?
1943年、大学生や専門学校生も戦地へと送られることになります。 本来は勉強をして将来の日本を支えるはずだった若者たちが、 銃を持って戦争に行くことになったのです。
「いってきます」
と笑顔で見送られた生徒が、二度と教室に戻ってこない——
教員も、生徒も、家族も、心が張り裂ける思いだったでしょう。
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🏠学童疎開(がくどうそかい)とは?
1944年以降、日本本土が連合国軍の空襲を受け始めます。 都市部は攻撃の対象になり、子どもたちの命が危険にさらされるようになりました。そこで政府は、【都市部の小学生】を【地方の農村】などに避難させる「学童疎開」を実施します。
・両親と別れて暮らす不安 ・知らない土地での孤独 ・十分な食べ物や布団もない生活子どもたちは、心も体もつらい日々を送りました。
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🔥東京大空襲と民間人の犠牲
1945年3月10日、東京はアメリカ軍の大規模な空襲を受けます。
・焼夷弾(しょういだん)と呼ばれる爆弾で街中が火の海に ・逃げ場のない木造の住宅街 ・一晩で10万人以上が亡くなりました。
これは「東京大空襲」と呼ばれ、日本で最も多くの人が亡くなった空襲です。
爆弾は兵士ではなく、【普通に暮らしていたお父さん、お母さん、子どもたち】の命を奪いました。
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⚔️沖縄戦——地上戦の現実
1945年、アメリカ軍は沖縄に上陸し、住民を巻き込んだ【地上戦】を始めます。
・戦闘に巻き込まれた一般人 ・「集団自決」をさせられた家族 ・壕の中で亡くなった赤ちゃんやお年寄り
沖縄では【県民の4人に1人】が亡くなったとも言われています。
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もしも、教室にいる生徒たちや講師が、突然「戦争に行け」と言われたら?
もしも、家族と離れて、知らない土地で暮らさなければいけないとしたら?
……そう考えると、胸が苦しくなりますね。
この時代には、それが当たり前だったのでしょうか。
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✏️戦争は、子どもたちから未来を奪う
勤労動員、学徒出陣、学童疎開。 これは教科書の中の言葉ではなく、実際に日本中で起きた現実でした。
子どもたちが夢をあきらめ、家族が引き裂かれ、 教室から戦場へ向かった。そんな日々が確かにあったのです。
だからこそ、今私たちができるのは、 ・平和な社会を守る ・過去を忘れず学び続ける ・違いを大切にし、話し合いで解決する
そんな未来をつくることかもしれません。
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📍次回予告!「戦時下の文化やイタリア・ドイツの降伏」を説明します。