
北区のみなさん、こんにちは。
今日はあまりテンション高くブログを書かないようにしています(なので写真もありません・・たぶん初めて)。
というのもタイトル通りでみなさん十分ご承知の通りです。
「2011年3月11日午後2時46分」あれから早いもので14年がたちました。
岩手や福島など東北の各県で慰霊祭が行われたそうです。
震災で亡くなった方、関連死とされた方、未だ行方不明な方など含めると約2万人(人ひとりの命に「約」という表現が適切でないことをご容赦ください)が犠牲となりました。
(ちなみに阪神大震災のときは、秋葉区(旧新津市)の小学校で担任をもたない「体育専科教員」として勤務していました。)
私はその当時、東区のある小学校で6年生の担任をしていました。
地震が起きたときは6時間目で卒業制作の図工を4階の図工室で行っていました。
その瞬間はのこぎりを収納棚から出すため、収納棚のカギを2階にある教務室に取りに行っているところで移動していたためか、その揺れにまったく気づかず教務室の引き戸を開けた瞬間、「先生!地震!!」と同僚に言われ立ち止まった瞬間、大きな揺れを感じたことを憶えています。
すぐに4階に駆け上がり、図工室に入ると子供たちが机の下に隠れ、泣いている女の子もいました。
「この地震大きいぞ!避難訓練じゃないぞ!頭守れ!!」と怒鳴ったことも憶えています。
揺れが収まった時点で体育館に移動し、1.2年生はステージの上に集合していて、3年生以上は水銀灯の下を避けた場所で集まっていました(ステージの上の天井は水銀灯ではなく蛍光灯であるため低学年はステージ上、3年生以上は水銀灯の落下に備え、その下を避けて集合することが決まりでした)。
その後、児童名簿から保護者の緊急連絡先に連絡して学校まで迎えに来てもらい、連絡の取れない方は近くの保護者に一緒に連れて帰ってもらいました。
その時はまさかこんな大きな被害になることを予想だにしてませんでした。
学校は震度4以上の地震が起きた場合、条例により避難所にすることが決められているため、子どもたちが全員帰宅したことを確認したのち、避難所開設のための準備をしました。
当時、私は新発田に住んでおり、母や妻、小3の息子の無事を確認し、避難されてきた方もおられたので勤務を続けていました。あれから14年。あの揺れを感じたときの体感はいまだに忘れることができません。
現在、葛塚校に勤務する講師の中にも岩手や福島出身の講師がいます。当時は小3や小4だったそうで、やっぱり体育館に集合していたそうで、新潟とは比較にならない揺れと恐怖だったことでしょう。
塾生の中にはこの東日本大震災のあとに生まれ、その事実を知らない子もいます。また、昨日は1945年3月10日、東京墨田区を中心に約10万人が命を落とした「東京大空襲」があったその日にあたります。
交通事故もそうですが、昨日まで、さっきまで元気でいた人が突然、命を奪われる・・
人間である以上、残念ながらそういった現実もあることを受け止めなければいけません。
だからこそ、1日1日を大切に、悔いなく生きることも子供たちに知ってほしいと思っています。
機会があればお子様を交え、ご家族で話し合うきっかけにしてもらえればと思いブログにしました。
昨日と今日は何か、天を見上げたくなる日でした・・・。
個別指導WAM葛塚校
塾長 秋山