教室ブログ

2014.09.30

誰のために勉強しますか?

地域の皆さん、生徒・保護者の皆さん、こんにちは!個別指導Wam庄内校・教室長の塩崎です。

 

生まれたてホヤホヤの庄内校も無事9月29日にプレオープンを果たし、おかげさまで沢山の子供たちが授業を行ってくれています。最初はキンチョーぎみだった生徒たちも、次第に塾に慣れてきたのか、リラックスして勉強に取り組んでくれています。たくさんの子供たちの笑顔を見られる、これって本当に教室長冥利につきるなぁと改めて感じました^^笑

 

さて、皆さんは読書はお好きですか?

 

かくいう僕は、この前引っ越しを手伝ってもらった友達が本の多さに驚くぐらい読書が好きです。教育関連の本はもちろん、政治・経済、経営、外交、自己啓発、小説ではミステリー、サスペンス、西洋文学、日本文学などなど、ジャンルは様々です。

 

そんな僕が敬愛する作家さんの一人に、明治の文豪である夏目漱石がいます。『吾輩は猫である』、『坊っちゃん』、『こころ』など数々の名著を世に残した誰もが知る名作家ですが、皆さんは彼の「漱石」という名前の意味をご存知でしょうか。

 

「漱」という字は、これで「くちすす(ぐ)」と読みます。つまり、彼の名前をそのままつなげると「石でくちすすぐ」という意味になりますね。「なんやそら」と思いませんか?

 

実はこれ、ある有名な中国のお話に由来しています。物語の名は「漱石枕流」(そうせきちんりゅう)。

 

中国の孫楚という男はある日、山奥で隠居生活を送りたいという気持ちを友人に打ち明けます。その際、本来なら 「石を枕にし、清流で口を漱ぐ生活を送りたい」と言うべきところを、誤って 「石で口を漱ぎ、流れを枕にする」と言ってしまうのです。

 

間違いに気づいた友人は、すかさずつっこみます。
「石で口をすすいで川の流れを枕にする?そんなことできるものか!」

 

しかし負けず嫌いの孫楚は自分の間違いを認めず、こう言い返したのです。
「流れを枕にするというのは耳を洗うということで、石で口をすすぐというのは歯を磨くということだ。」

 

この物語から転じて、「漱石枕流」という言葉は、負け惜しみやひどいこじつけを表す四文字熟語となりました。夏目漱石の名前も、もちろんこれに由来します。

 

彼の本を読めばよくわかりますが、漱石という男はかなりのひねくれもので頑固者でした。時の総理大臣の招待に、 「時鳥厠半ばに出かねたり」 という句を添えて断った(ようは、トイレの途中だからいけません、と返事したわけです。総理大臣に)なんてエピソードもあります。

 

これほどぴったりな名前は他にないと、きっと彼自身も思っていたことでしょう(もちろん漱石というのは本名ではなくペンネームです。彼の本名は夏目金之助でした)。そんな「漱石枕流」の物語の中で、孫楚は誤って「流れを枕にする」と言ってしまいましたが、正解である「石を枕にする」という例えもこれまた、現代の私たちにはなかなか想像に難い言い回しであります。

 

枕について話をすると、一万円札でお馴染みの福沢諭吉はとても興味深い枕エピソードを持っています。彼が日本の近代医学の祖と言われる緒方洪庵の書生だったころ、諭吉は緒方の塾で(福沢諭吉も塾に通ってたんですよ!!)誰も右に出るものはいないというほど猛烈に勉強していました。そんな彼がある時、熱をだしてしまいます。これはいかんと思い布団で眠ろうとした諭吉ですが、何故か枕がないことに気がつきます。

 

よく考えればそれもそのはず。諭吉はそのころ、昼夜を問わずひたすら勉強しており、眠くなったら机に突っ伏して眠っていたので、寝具をつかって寝るようなことが一切なかったというのです。

 

これに似たようなエピソードは、諭吉と同じ世代を生きた吉田松蔭や、世代は彼らより後になりますが田中菊雄などにも見られます。菊雄は諭吉さながら昼夜を問わずの勉強で眠るときは机に突っ伏し、さらには五年もの間、片道8キロかかる英語講師の元に徒歩で通い続けたそうです。

 

なぜ彼らはそこまでして、身を粉にして勉強できたのでしょうか。

 

それが今日の僕が伝えたいテーマです。

 

勉強はなんのためにするのか。
これについてはまたいつかblogに書きたいと思っています。

 

今日は少し質問を変えたいと思います。

 

人は誰のために勉強するのでしょうか。

 

自分のため。

 

これが、よく耳にする回答です。
生徒も、保護者さまも、先生も、だいたいこう答えます。僕の経験上ですが。それが間違っているとか、おかしいとか、そんなことを言うつもりはございません。でも、ただ考えてほしいのです。福沢諭吉が、 田中菊雄が、吉田松蔭が、枕が必要ないぐらい、まさに身を削ってまで勉強に明け暮れていたその理由が、「自分のため」なんていうそんな利己的かつ陳腐なものだったのでしょうか。

 

僕は違うと思います。もちろん、自分のためでもあったと思います。実際、勉強は楽しかったと諭吉も言っています。でも、もっと大きな理由が、彼らを勉強にかり立たせたもっと壮大な動機があったと思います。

 

世のためです。

国のためです。
人のためです。

 

ペリー来航から明治維新、西洋の圧倒的に優れた学術を目の当たりにし、一日でも早く日本を西洋に負けない国へと成長させるために、彼らは奮迅奮闘したのではないでしょうか。だって、彼らは肌で感じていたはずだからです。はやく成長しなければ、すぐにでも日本はどこかの国に飲み込まれてしまうという緊張感を。事実、吉田松陰は国のあるべき姿を主張し続け、幕府によって30歳で斬首されました。彼が獄中で弟子の高杉晋作に送ったといわれるのが、かの有名な名文、「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」です。

 

勉強は自分の為にするもの。
それはそれで正解ではあります。

 

いい学校に出て、いい会社に就職して、社会的地位を確立して、そのために勉強が大事なんだと。僕もそれに反論する気はありません。でも、それはとても狭い視野での、一面的な事実でしかないと僕は思うのです。少なくとも福沢諭吉は、そんなことのために勉強したわけではありません。

 

 

 

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「ソレカラ考えてみると、今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行く末ばかり考えているようでは、修行は出来なかろうと思う。さればといって、ただ迂闊に本ばかり見ているのは最も宜しくない。宜しくないとはいいながら、また始終今もいう通り自分の身の行く末のみ考えて、如何したらば立身が出来るだろうか、如何したら金が手に這入るだろうか、立派な家に住むことが出来るだろうか、如何すれば旨い物を食い好い着物を着られるだろうか、というようなことにばかり心引かれて、齷齪勉強するということでは、決して真の勉強は出来ないだろうと思う。」

 

『福翁自伝』 岩波文庫 1978 – 94貢

 

 

 

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もし勉強は自分の為だけにするものであるなら、学校は必要ありません。塾も必要ありません。勉強が自分の為のものなら、それを他人に教える機関は生まれるはずがない。

 

勉強は世のため人のためにするものです。
そんな妄想的な使命感に支えられているのが勉強ってものなんです。

だから勉強は、人によって人に教えられるのです。

 

もし勉強は自分の為にするものなら、それを他人に教えるリスクはあまりに大きい。

 

もし勉強が自分の為のものなら、自分が勉強するより他人の勉強する機会を潰す(あるいは教育の機会を自分たちで独占する)方が効率的だという考えがまかり通るはずです。実際、そういう考えは存在しているようですが(ティーパーティー運動で有名なリバタリアンと呼ばれる人々は、どちらかというとそういう考えに近いです)。

 

でもそうじゃない。そうじゃないから福沢諭吉は『学問のすすめ』を書いたんです。世のため人のために、学問をすすめたんです。そうすれば日本がより良い国になると信じて。勉強は、自分のためになります。間違いないです。諭吉だって認めています。でも、そういう内向きで閉鎖的な動機だけでなりたっているものではないのです。

 

教育とは、自己利益のために存在しているのではありません。子供たちを成熟した市民として既存社会に送り出し、それによって社会を持続・発展させるために、存在しているのです。もちろん、僕はこれをわざわざ生徒や保護者さまに語り歩いたり、この考えを押し付けるつもりはありません。勉強の動機がなんであっても、どんな考えでも僕は歓迎します。いい高校・大学に行きたいから、こんな仕事につきたいから、テストでいい点取りたいから、自分の目標を達成したいから。

 

うん、全部すばらしい! 僕は全力で応援します。

 

でも常に、僕は自分の胸にこの思いを秘めて教室にいます。

 

勉強は、世のため人のためにある。

 

いい高校・大学に行って、テストでいい点とって、お父さんお母さんを喜ばせてあげたいから。

こんな仕事について、こういうふうに人の役に立ちたいから。

お金稼いで、自分の子供にいい生活させてあげたいから。

 

こんな風に。

 

「自分のため」の先には、必ず「誰かのため」があるんだと、僕は信じてます。

だから僕は、誰かの為に勉強したいと思える心を、生徒の皆さんに育んでほしい。

種だけでも植えたいと思っています。

 

そりゃ、勉強してくれるなら、最終なんでもいいです。自分の為オンリーでも、なんとなくでも、楽しいからでも、いやいやでも、させられてるからでも、なんでも。ほんとに。でも、勉強したくない、別に自分の将来なんてなんでもいい、かったるい。そんなお子さんもたくさんいます。僕がそうでした。

 

彼らに少しでも

 

「でも、まぁ教室長のために勉強ちょっとがんばるか」
「あんまひどい点とったりしたら教室長に悪いし、まぁやったげよかな」

 

そう思ってもらえるような教室長でありたいですし、そんな心を育める教室にしたいんです。そこに当てはまるのが教室長であろうと、講師であろうと、お父さんお母さんであろうと、学校の先生であろうと、別に誰だっていいんです。でも、誰かのためなら勉強できる。誰かのためなら、いつもよりちょっと頑張れる。

 

そんな風に思えるって、素敵じゃないですか。

そんな気持ちを応援してあげたいと、大切にしてあげたいと僕は思います。

 

だってそれって、すごく、すごく美しくて、素敵ですもん。

それで枕が見つからないぐらい勉強できるなら、なおさら素晴らしいじゃないですか。

 

自分のためだからがんばれる。

うん、すばらしい。

 

自分のため?そんなのどーだっていいし。将来とかわからんし。やりたいことなんてないし。

 

そっか。

 

でも、誰かのためなら、あの人が喜んでくれるなら、がんばろっかな。

 

お、それって凄く素敵だね。

 

というわけで、教室ではなかなかできない、教室長の塩崎が胸に秘めている話、これからもblogではちょくちょく書かせていただきたいと思っています。

 

なお、個別指導Wam庄内校では、机に突っ伏して眠るのは厳禁です。

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