教室ブログ

2023.11.27

【所属感のおはなし#4】

こんにちは!磐城駅前校です。本日も一人でも多くの方の目に届くことを願い、

投稿させていただきます。

 

前回の続きです。

前回は「問題行動は本意ではない」と言うお話をしました。そして「非難されることですら本人にとって嬉しい事である」というお話に繋がりましたね。

 

「その人たちには悪の心が宿っているんだ!非難されるべきだ!」と思いますか?

「本当にかわいそうな人たちだ。助けてあげましょう」と思いますでしょうか?

 

実は、私個人的には両意見共、本人の為にならないと思っています。

当の本人は幼少期に「所属感」を得る事が出来なかった。だから家族以外のコミュニティに求めてしまっているという状態です。

 

もしその人の為にしてあげられることがあるとしたら「その事に気付いてあげる」という事です。言い方を変えると「この人は所属感が欲しいんだな」と思ってあげるという事です。

 

本人は所属感を通じて「この場所で生きていてもいい」という感覚を欲しがっています。しかし、感覚とは与えられるものではありません。感覚とは「自分で得るモノ」だという事です。それは経験からもあり、人から教わり我がものとする場合もあります。

 

例えば自転車に乗りたい子供がいるとします。周りの大人は「前のめりになってペダルを蹴るようにこぐんだよ」や「ハンドルをまっすぐにしないとバランスが取れないよ」なんて言います。

 

しかし、いくら口で指導したってネットで自転車の乗り方を調べたって「やるのは本人」ですよね。つまり、周りの人間は「やらせる」事は出来ませんし、もっと言うと「感覚を与える」事は出来ないのです。

 

瓦の割り方の本を何十冊も読んだって、瓦は割れるようになりませんし、泳ぎ方を人から教わったって、実際に水に入らないと泳ぎ方はわからないという事です。

 

話を戻しますが、運が悪い事に幼少期の時にその感覚を得る事が出来なかった。

しかし、それが「可哀そう」だという事ではないのです。

 

ただ「得られなかった」だけの話です。そこに良いも悪いもありません。評価してはいけないのです。ただ「得られなかった」という結果が生まれただけです。

 

もしそこに「可哀そう」なんて評価を付けてしまった場合、その人は「可哀そうな人」として存在してしまいます。という事は「可哀そうだから」なんて言う具合に他人との「差」がついてしまいます。

その「差」によって一番つらくなるのは「本人」です。

 

とは言え、可哀そうだから「人に意地悪をしてもいい」は通用しません。可哀そうだから「他人を傷つけてもいい」にはならないのです。

 

よく耳にしますのが「昔はいい子だったのになんで不良になってしまったのかしら」という親がいます。今までのお話を理解できた方はお分かりかと思いますが、その昔の当時は「いい子のように見せていた」言い方を変えると「いい子を演じないとこのコミュニティで生きていく事が出来なかった」という事が本人に起きているという事です。

 

そして、人間の脳は「原因と根拠」が大好きです。「この人は〇〇だから△△なんだ」「日本は○○だから△△なんだ」など、「一定の事柄に原因と根拠を求めたがる」動物です。もっと言うと「脳が情報処理をする上でその方が楽」だという事です。

 

脳のお話は機会がありましたらお話させていただきます。

 

次回に続きます。

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