教室ブログ

2014.10.19

子供の問い

 

「何のために勉強すんの?」
「これ覚えて何のためになんの?」
「こんなん将来絶対使わんやん!」

 

面白いもので、自分がかつて繰り返し大人に問いただしたこれらのフレーズは、今はそっくりそのまま子供たちに問いただされる立場となりました。きっと保護者様も共感いただけるでしょう。何とも言えない、この感じ。

 

皆さんこんにちは、Wam庄内校の塩崎です。今回は長話を致します。

 

「それで結局あなたは何がいいたいの?」という類の言葉を、フランスの哲学者であるジャック・ラカンは「子供のディスクール」(子供の問い)と呼びました。先に述べたような質問は、まさにこれにあたるでしょう。僕が(勝手に)人生の師・先生と敬愛している日本の思想家、内田樹さんは、かつてこの「子供のディスクール」について、こんなことを書き記しています。

 

 

 

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『大人がいろいろと子どもに向かって語ったあとに、子どもが大人をじっとみつめて「そう言うことによって、あなたは何を言いたいの?」と問いかけることってあるでしょ?英語で言う、So what? というやつ。ラカンはこれを「子どものディスクール」と呼んでいます。

 

これは一見すると、大人の虚を衝く、きつい「突っ込み」みたいに聞こえますけれど、それをラカンがあえて「子どものディスクール」と名付けた以上は、「子ども」に、つまり「これから象徴界に参入することになるもの」に固有のふるまいなんだとぼくは解釈しています。

 

「だから、何が言いたいの?」という直截な問いかけにしばしば大人たちは絶句します。 大人のそんな狼狽ぶりを見て、子どもはひそかに凱歌を上げます。「大人の先手を取った」と思うのです。

 

でも、ほんとうに子どもは大人の二枚舌を痛撃したんでしょうか?

 

フロイトが『機知』でも引いている有名なユダヤ・ジョークがあります。こんな話。

 

列車の中で独りのユダヤ人がもう一人のユダヤ人に尋ねた。
「どこへ行くのかね」
「レンブルクさ」

 

すると尋ねたユダヤ人は怒って言った。
「いったいどうして、あんたは本当はレンブルクに行くくせに、クラカウへ行くとひとに信じ込ませようとして、『レンブルクへ行く』なんて言うんだ!」

 

これはみごとに「子どものディスクール」の本質を衝いたジョークだなとぼくは思います。

 

疑り深いユダヤ人は(実年齢がどうあれ、分析的な意味では)「子ども」です。だって、彼は「あなたはそう言うことによって、何を言いたいのか?」という「子どもの問い」をつねに他人に差し向けることを「知的なふるまい」だと思っているからです。おそらく彼の経験は、人間は本当の目的地(すなわち、欲望の真のありか)を他人に察知されないように、「ほんとうの目的地とは違う地名」を人には告げるものだと教えているのです(子どもの浅知恵ですね)。

 

しかし、人に出し抜かれまいとつねづね心がけているこの疑り深いユダヤ人は、果たして「レンブルクに行く」と告げたユダヤ人を出し抜いたことになるのでしょうか?

 

なりませんよね。

 

この笑話のほんとうの諧謔性は、「相手を出し抜いたつもりの人間はつねに出し抜かれる」という逆説のうちにあるからです。「人間はつねにほんとうに言いたいこととは違うことを言う」と思い込んでいるこの疑り深い「子ども」に多少とでも知恵があれば、彼に問われた相手が「本当のことを言って人を騙す可能性」にもただちに思い至るはずだからです。そして、そのときもまた彼は同じ問いの言葉を口にする他にないのです。「『本当のこと』を言うことによって、あなたは私に『本当は』何を言いたいのか?」(これがこのジョークのオチなんですけど)。

 

どうしてラカンがこのような問いかけの形式を「子どもの言説」と名づけたのか、その理由がここで分かります。「子どもの問い」とは、それをひとたび発した後は、問いかけられている当の「謎」に決して追い付くことができないように構造化された問いだからです。言い換えるなら、「謎」に対して宿命的なビハインドを負うもの、それが「子ども」のラカン的定義なのです。

 

「だから、それはどういう意味なの?」という問いかけは、相手が「何か自分には見えないものを隠している」と考えているか、あるいは「相手が自分にはそのルールが分からないゲームをしている」という判断がなければ、発されることはありません。「自分にはそのルールが分からないゲームをこの人はしているのだけれど、自分はすでにプレイヤーとしてそのゲームを始めてしまっている(だからはやくルールを教えてよ!)」というちょっといらつき気味の自己認識欲求をもつものを、ラカンは「子ども」と定義したわけです(たぶんね)。

 

でも見落としてはいけないのは、この文脈における「子ども」というのが決して否定的な存在ではない、ということです。「子ども」とは、実は人間が「未知のもの」に向き合うときに践むべき「適切な作法」のことだからです。子どものくせに大人のふりをしちゃいけません。

 

例えば、神さまに対面したとき(ぼくは神さまに会ったことがないので、これは想像ですけれど)、ぼくは何と言うでしょうか?

 

「神さまが何を考えているか、ぼくは全部知ってるよ」

 

とはまさか言いません。

 

「神さまは、なぜ完全な世界ではなく不完全な世界を、善人が幸福を約束されず、邪悪なものがはびこる世界を創造したんですか?」

 

とぼくなら訊ねるでしょう。

 

もちろん、神さまは絶対その答えを教えてくれません(これは賭けてもいいです)。にやにや笑ってぼくにこう言うんです。

 

「キミはどうしてだと思う?」

 

ほらね。

 

「あなたはこうすることによって、何をしたいんですか?」というのは、起源的には「神さまへの問いかけ」だとぼくは思っています。

 

だから、子どもが大人に問いかけるときのマナーとして、これは「正解」なんだと思います。

 

『その10 2003年11月24日 内田 樹から平川克美くんへ』http://www.tatsuru.com/tokyo/html/tfk.10.html(なお内田樹さんはご自身で書かれた記事に関しては著作権放棄の立場をとっておられますので、お言葉に甘えて引用させていただきました。)

 

 

 

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どうでしょう。生徒さんにはちょっと難しいかもしれませんね。

 

皆さん、世の中生きていれば、気に入らないこともたくさんありますよね。なんで学校行かないといけないんだとか、なんで勉強なんてしないといけないんだとか。でもそうはいっても始まらないし、なにも解決しない。だって生まれてきたときには「そういうもん」だったんですから。つまり、学校には行かなきゃいけないことになってたし、勉強はしないといけないことになっていた。

 

人はそういった状況でこの世に生まれてきます。

 

「すでに始まっているゲームに遅れて参加するプレイヤー」として社会に投げ出される、ということです。

 

ん?よくわからない?そうですねー。皆さんは小さいころに「○○ごっこ」とかしましたよね?なんでもいいんです。おままごとでもいいし、仮面ライダーごっこでもいい。最初におままごとを始めたのが4人だったとしましょう。この4人はそれぞれ話し合って、自分がやりたい役を演じるわけです。○○ちゃんはお母さんで、みたいに。それでしばらくおままごとをやっていると、自然とルールができあがっていく。「こういうときはこうしよう」とか、「これはしちゃいけない」とか。

 

そうやっておままごとが進行し、盛り上がっていくと、途中で「いれてー」って言ってくるお友達、いませんでした?「いいよー」と二つ返事でいれてあげられたらいいんですけど。でもこの途中から入ってきた子は、お母さん役になることはできない。当たり前ですよね、そこにはもうお母さんがいるわけですから。どうしてもその子がお母さん役にこだわったとしたら、残念だけどこの子はおままごとには入れてもらえない。もちろん、譲ってもらえる可能性がないわけではないですけど。

 

そうなると、この子は空いている役しか演じることができない。そうですよね。それがいやならよしてあげないってわけです。いざ入れてもらえたとしても、そこには最初の4人が決めた既存のルールがある。途中参加者は、この既存のルールに「従う他ない」わけです。それが腑に落ちなかろうがなんだろうが。そうするほかない。それを無視したり、ルールに逆らっていたら、途中参加者は初期メンバーの4人から即刻退場を命じられるというわけです。実際こういう体験、誰もが持っていると思います。

 

おままごとなら途中参加者がまさかのカリスマ性を発揮して既存ルールを一から作り直してしまったり、「次は○○ちゃんがお父さん」みたいに、配役をリセットすることが可能です。ただこの舞台が現代社会となるとそうもいかない。全く同じことです。生まれた時から社会は既に存在しているし、ルールは既に決まっているし、それが気に入ろうがなんだろうが、とりあえずはそれに従っていく他にない。生まれる前から日本は戦争に負けているし、その時のことを全く知らなくても戦争時のことで外国の人に攻撃的なことを言われることもあるだろうし、行きたくなくても学校は存在するし、大人になったら仕事しなくちゃいけない。

 

「おれたりぃから中学校いかねー」というわけには残念ながらいかない(もちろん、事情がある場合など例外はありますが)。なぜなら日本では「教育を受ける権利が保障されているし、教育を受けさせる義務が親権者にある」からです。生徒の皆さんがお気に召すかどうかにかかわらず。

 

「すでに始まっているゲームに、遅れて参加するプレイヤー」として社会に投げ出される、とはそういうことです。そして普通、子供はそれをすんなり受け入れることができない。そして彼らは「子供のディスクール」を大人たちに投げかけるのです。

 

「なんで勉強せなあかんの?」
「なんで大人になったら働かなあかんの?」

 

我々はその理由を知っています。
保護者様の皆さんも、もちろんご存知です。

でも子供たちは知らない。わからない。理解できない。

 

そういうものなんです。それでいいんです。

 

彼らは問いを投げかける。

 

大人を試すための意地の悪い魂胆なのか、本当に素朴な疑問なのか。

 

でも「聞く」ということは、「この人は何か知ってるだろうし教えてくれるんじゃないか。自分が知らないことを。」ってなんとなくでも思ってるはずなんです。無意識であれ、無自覚であれ。

 

そういう構造の下、内田さんは子供の問いを「神様への問い」だと表現しているのです。僕たちは神様に尋ねます。なぜあなたはこんな世界を創造したのかと。さぁ。神様は僕たちに、起承転結がはっきりしてエビデンスに基づいていて反論のしようもなく、思わず「あ~なるほどそうだったんですね」という理詰めの回答をしてくれるでしょうか。

 

きっとしないでしょう。

 

煙に巻くか、答えてくれないか、答えてくれてもきっと釈然としない謎めいたことしか伝えてくれないでしょう。それでいいんです。そういうものなんです。親や、教師や、師匠というのは、子供や生徒や弟子に、「何かを学ぶ機会を与える」存在なのです。そこから何を学ぶか、どんなことを学ぶか、どんなふうに学ぶかは「子供や生徒や弟子の仕事」なのです。

 

最近の教育観が腐敗してきていると(不遜にも)僕が感じる理由の一つが、この子供のディスクールに大人が簡単に答えを与えてしまったことです。いい学校に行くためだとか、大企業に就職するためだとか、お金を稼くだめだとか(それが間違っているとか、不純だとか、そういう批判ではありません)。こういった資本主義のイデオロギーは教育との相性がすこぶる悪いんです。

 

教育を受ける側が市場の買い手(消費者)なのだとしたら、彼らの大多数は必ず、「少ない努力で教育を買おう」とする。それが市場のシステムだからです。皆さんそうでしょ?買い物するにいても、安くていいものを買う。全く同じものなら、必ず安い方を買う。それが賢い消費者です。おんなじものなのに安い方の二倍もする値段で買ったら、その買い手は「馬鹿」であるとしか言い様がない。教育において同じ原理を持ってきてしまったら、一番賢い教育の消費者は、「より少ない努力で学歴を手に入れた人間」ということになる。単位が取れるなら100点なんかとらなくても、合格点をクリアすればいい。それが一番賢い学生ということになる。

 

実際、今の学生のほとんどは「赤点回避すればいいや」と思っている。僕はこれは、上記のような子供のディスクールに対して、世の中が資本主義のイデオロギーに満ちた回答を提示してしまったことが要因の一つだと思っています(わかる人にはわかるでしょうけど、これホントに、内田樹先生の受け売りです)。

 

そして実際、この「子供のディスクール」にうっかり答えてしまった方。経験済みだと思います。答えて納得してくれるためしはまぁないですよね。答えてよいことはめったにない。親御さんからの場合は特にです。大体屁理屈を返されて終わりです。内田先生もおっしゃっていますが、そもそも子供は、大人を試すためにこういった問いを投げかけます。それにいちいち答えていたらきりがありませんし、もし屁理屈で丸め込まれでもしたら、完全に子供は一杯食わせた気分になります。


「自分の為だ」
「目標や夢を達成するためだよ」

 

それは素晴らしい回答なんです。でも、高度経済成長期もバブルも知らない、日本経済の低迷期しか経験していない、しかも上記のような消費者マインドにドミネイトされている世代の今の子供たち(僕も世代としては一緒です)は、そういう類の言葉に案外冷ややかな目線を送ることがあります。「で、そうして僕にどんないいことがあるの?」って。

 

子供は知らないんです。そうやって一杯食わせて嘲笑った(気分になってる)大人に、いつか自分がなることを。頭ではわかっていても、心からは理解していない。心のどこかで、自分は一生子供のままいられるって思ってますから。彼らのピットフォールはそこにある。

 

でも、そういうもんなんです。そうでしょ?自分が子供だったとき、そうだったはずです。
子供ってそういうもんだって、皆さんよく思われるでしょ?

彼らにも同じことを思わせればいいんです。
だってそういうもんなんですもん。

 

「なんで勉強しなくちゃいけないの?」

 

絶句すればいいんです。
相手にしなければいいんです。
神様よろしく、ニヤニヤしながら「なんでだと思う?」と聞けばいいんです。

 

ゲームのルールは、そのステージをクリアしたあとに、事後的に知ることができる。
それが我々が参加しているゲームの原理ですから。

 

自分にはなんだかよくわからない。そんな未知なる何か。
それを知っている人がいる。
だからその人について行こう。

そうして師弟関係は生まれたのです。

 

もう一度言います。

 

親や、我々教師や、師匠というのは、子供や生徒や弟子に、「何かを学ぶ機会を与える」存在なのです。

そこから何を学ぶか、どんなことを学ぶか、どんなふうに学ぶかは「子供や生徒や弟子の仕事」なのです。

 

それは、買う前から用途も性能もそれを買ったらどんないいことがあるかもわかっている「商品」とは違います。なんの役に立つかもわからない、どんな能力が身につくかもわからない、どんないいことがあるかもわからない、そういう状態でしか「人は学ぶことができない」

 

だって「学ぶ」ということは、学ぶ前は「知らない」ということでしょ?

 

つまり、知らないという状態でなければ学べないんです。無知でなければ学べないんです。当たり前ですけど。そして知らないんだから、それがなんの役に立つかも、どんないいことがあるかもわかるはずがない。

 

それは学んだあとにしかわかりようがない。
それが「遅れてゲームに参加するプレイヤーの宿命」なのです。

 

僕は皆さんに「学ぶ機会」を提供します。

テストの点数の上げ方を教えます。
受験勉強の仕方を教えます。
皆さんの将来の夢や進路を手助けします。
何もないなら、一緒に考えます。

 

全力で。本気で。マジで。

 

でもそれは、僕がここで語っている「教育」の、「片棒」でしかないのです。僕がここで論じている「学ぶこと」や「教育」という言葉が意味しているものは、それらを包括する、より大きなものであるということは、お分かりいただけると思います。

 

だから、僕が協力できるのは、片棒を担ぐことです。
本気で担ぎます。

 

でも、もう一方の片棒は、皆さんが担いでいくものなのです。
そして一緒に担いで、歩んでいくものなのです。

 

ん?

 

「で、結局なにがいいたかったの?」って?

 

お、わかってきたね。

 

そーゆうことがいいたかったんだよ。

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