教室ブログ

2018.12.17

無限

こんばんは。Wam六十谷校の川口です。
野矢茂樹さんの無限論の教室を読んでいました。

 

 

矢が飛んでいるとしよう。この矢は、いつの時点でもその瞬間は止まっている。いつの時点でもその瞬間は止まっているならば、いつも止まっているわけで、したがって 、矢は止まっていて動かない.

 

 

この、ゼノンのパラドクスには問題を解決できない難しさとこれが本当に問題なのかはっきりしないとう難しさがあります。例えば矢については、距離を線分ABとし、各瞬間で中間点をとることができるとしても、線分ABは無限の点を含むので、いくらでも中間点をとることができる。そのため、矢はAからBに到達するまでの無限の仕事をしなければならないことになります。収束する無限級数もこれを証明しません。
しかし、無限の仕事が完了するというのは、自然数を数えつくすのと同じで、定義的に不可能です。それゆえ、矢はBに到達しません。これは、線分が無限の点を含む ということの意味をどう考えるかによります。cut offとcut intoを区別する必要があります。線分から無限の部分を切り取ることはできるが、無限の部分に切り分ける ことはできません。線分を切断すれば点が取り出せます。それはいつまでも続けていけるという、可能性こそが無限である『可能無限』と、線分にはすでに無限個の点が存在していると考える『実無限』に解釈が分かれます。アリストテレスが最初に区別、議論し、可能無限の立場に立ちました。カントールは現代の無限集合論を作り、わたしたちは無自覚のうちに実無限的考え方をすり込まれています。
包含関係で比較できるのは限られた集合同士で任意の集合を比較するには役に立ちません。二つの集合の間に一対一対応が作れればその集合の濃度が等しい、とカント ールは直線と平面の濃度が等しいこと、つまり何次元でも濃度が等しいことを明らかにしました。これは自然数の集合と偶数の集合は濃度が等しいが、それはそれらの集合が同じものだということを意味してはおらず、単に測定方法が違うだけだということを示しています。そして、実数の集合は、自然数の集合よりも濃度が大きい、と対角線論法で証明しています。
無限集合論の立場からは、ある部分の部分集合を考え、その集合に対して作ることのできる部分集合をすべて集めたものを『冪集合』といいます。ここで自然数の冪集合が自然数よりも濃度が大きくなる証明があります。自然数の部分集合(S0,S1,S2…)が自然数(0,1,2…)と1対1対応を作ったと仮定し、n番目として番号づけられた部分集合をSnとします。集合がある要素をもつとき、それを1で表し、もたないときは0で表すと、S0,S1,S2・・・と縦に0,1,2・・・と横に書いていくと表が作られます。表には0か1かが入力されてその部分集合が表現されています(S0は奇数、S1は偶数など)。この表に対角線を引き、その0と1を入れ替えると新しい部分集合が作られることになり、自然数の部分集合の方が自然数の集合そのものより濃度が大きいことになります。しかし、カントールのパラドクスはラッセルによって矛盾が示されます。自分自身を要素としてもたない集合の集合をSrとし、xがラッセル集合の要素だとします。xはSrの要素である←→xはxの要素ではない と言えますが、xにSrを代入すると矛盾します。これは対角線と同じであり、それが自己言及を作り出していたと認識されます。
カントの直観主義では可能無限的な観点から対角線論法に異を唱えます。AかAでないかどちらかだという考え方を排中律といい、これ認められるか否かは対象を実在のものとみなしているかの基準となります。直観主義は、無限が関わる領域では排中律を拒否します。これにより二重否定除去則や否定除去型の背理法が使えなくなります。可能無限の観点を徹底すると、パラドクスの克服と排中律の拒否という結果が生じ、無限に対する見解の相違になります。ブラウアーが『直観主義と形式主義』という論本でヒルベルトに対抗しましたが、ヒルベルトは真理や虚偽とは切り離された記号計算のゲームとして公理系を作ろうとしました。ヒルベルトは直観主義を逆手にとり、有限個の公理と有限個の推論規則を繰り返し用いて定理を証明していくステップは可能無限的であるので、メタ数学も対象となり排中律が使用できるとしました。
これに対し、ゲーデルはメタ数学を自然数論以上の道具立てを含まない形に制限しようと考えます。このために、可算無限である式や配列を自然数に対応させるゲーデル数化を行います。ゲーデルはメタ数学を自然数論に翻訳しましたが、それによりメタ数学的内容をもった自然数論の式ができ、それに対するメタ数学の文はメタのメタであり、形式主義は果ていなく続く運命を内蔵していたことが分かります。ゲーデルの第一不完全性定理は対角線でも表現でき、カントール、ラッセルと並びひとつの主題を巡る関係性を感じます。さらに第二不完全性定理では自然数論の無矛盾性がもし証明されたと過程するならば、矛盾が導かれることが示され、有限の立場のメタ数学では自然数論の無矛盾性を証明することが不可能であることが示されます。

結局可能無限か実無限かの決着はつきませんが、哲学的立場から無限論を見ることができ、人の思考が自然に矛盾を認めてしまうことを不思議に思いましたが、いろいろな視点から考えることは、矛盾を孕む考えも含めてのことであり、意外に世界には矛盾が多いように思います。

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