教室ブログ

2021.10.15

【「肩書」と「礼儀」】

こんにちは。Wam四箇郷校です。10月も半ばに差し掛かり、今いつも通り心地よい最近ですが、暦の上ではあともう3週間程で

「冬」ですから、そろそろ来年を意識しないといけない、と言う所でしょうか?個人的に1週間の経過が流れるように早く感じ、

その積み重ねで四箇郷校に参ってから、これも早や1年半が経ちましたが、ひとまず、「いつも通り」に淡々と過ごさせて貰って

いるのは有難い所です。四箇郷校に場所を変えても、更に1年半経っても、教室においての私の「被呼称」は「先生」なのです

ね。その「呼称」での呼びかけに対して私は「はい」と返事を致します。当たり前ですが、当たり前でない事だとここ数年思う

のです(汗)。「仕事」においての「私事」ですが(笑)そのせいか、教室においての私自身の一人称は「私」に変わり(それ

が正しいのか否かは置いといてですが・・・)、「先生」という一人称をに「私自身」はですが「敬遠感」を持ってしまってお

ります。その中でのまたまた、「論語」の一説なのですが、「恭(うやうや)にして礼無ければ則ち労す、慎にして礼無ければ

則ち葸(し)す、勇にして礼無ければ則ち乱る、直にして礼無ければ則ち絞(こう)す」「恭」は敬う心、「慎」は慎重さ、

「勇」は勇敢さ、「直」は正直という意味を持つ漢字です。全て相手に向けての「思い」で、折角それぞれの相手に対する恐ら

く「良かれ」と思っての「思い」でしょうが、「礼儀」を知らないとそれぞれが、くたびれ儲けになってしまったり、度を越し

た神経質になってしまったり、粗野で乱暴になってしまったり、相手のテリトリーに土足で踏み込んでしまう事になりかねない

と思います。世の中からの「客観的」な「評価」という側面も有るでしょうが、例えば「肩書」と言う物は、あくまで「低調」

に「丁重」に「授かる」物だと思うのです。「肩書」がある故に「目上」の立場にいる事が出来るとして、もし、「肩書」がな

ければ、自分の言うことなんていったい誰が聞いてくれるのか?言い換えれば、「肩書」ないしは「身分」が無くても自分の言

う事に耳を傾けてくれる「人」と言うのはどんな人であろうか?と言う事をイメージする事が、「礼儀」について意識する一つ

の手掛かりになるような気がします。当然、「肩書」さながらの「経験」や「人」との繋がり、「評価」も必要だとは思います

が(笑)定義するとすれば「謙虚さ」なのではないか?と思います。「仕方がないからその「肩書」で呼んでいる」と思われて

いれば確かに悲しいですが、逆にこちらが「仕方がないからその「肩書」でそう呼んでくれているのかも」しれないという可能

性は、厭らしいですが決して否定出来ないと思うのです。ですが、その心持ちは、個人的には自分が決して「慢心」しない為の

抑制剤の一つとしては必要だと思ったりします。私の好きなドラマにて、「何をいい先生と言うのかわかりません」と言う一説

が有るのですが、私自身も何を正しい「礼儀」と言うのかが未だに分かりません(笑)テレビにて、「毒舌」や「嫌味」「皮

肉」を「笑い」や「ユーモア」に変える事が出来る方をみて、羨ましく思う事が有ります。「こんな風に自分の言いたい事を面

白おかしくズバズバ言えたら、ストレスがあんまり溜まらんだろうなぁ」と思うのです(笑)。このご時世、相手が「そう」思

ったら「そう」だと言うリスクが有り、諸刃の剣の様ですが、共通点として、相手の人間性や、「容姿」や「先天性」的な持っ

て生まれた物を、「感情的」になって一切「中傷」「否定」したりしていないのですね。更に面白おかしくする為の「協力依

頼」等、事前の「礼儀」を弁えているのですね。「悪気」や「悪意」の無い、「筋」が通っている様にも見えます。当然と言え

ば当然だとは思いますが。そういう意味では「相手」に「配慮」しかつ「承認」を得ていて、例えば「冗談」とのボーダーライ

ンをきちんと引けているのだな、と感心したりします。「肩書」と「礼儀」は表裏一体で、「礼儀」は「肩書」に応じて比例さ

せる必要がある気がするので、そういう意味では「肩書」に決して溺れてはいけないとつくづく感じる次第です。平時がある程

度戻った感ではありますが、体調にはくれぐれも気を付けて下さい。

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