教室ブログ

2019.03.14

印パ戦争について

個別指導Wam野口校の小藤です。

先月26日、インドは1971年の第3次印パ(インド­=パキスタン)戦争以来48年ぶりにパキスタンへ侵入し、過激派組織「ジャイシェ・ムハンマド」の拠点と思われる場所を空爆しました。きっかけとなったのは14日の自爆テロです。これは、カシミールのインドが支配する町で自爆テロが起こり、パキスタン軍の情報諜報組織に支援を受けているとされている「ジャイシェ・ムハンマド」の犯行声明に対する報復行動とされています。今回は印パ戦争、インドとパキスタンの関係について考えてみましょう。

印パ戦争は現在まで3度おこり、第1次と第2次はカシミールの帰属が原因で戦争となりました。カシミールはインダス川の最上流部分にあり、本州と同じ程度の大きさです。アフガニスタン、インド、中国、パキスタンと接し、前3世紀半ばのアショーカ王の時代に仏教が伝えられて以降は仏教の中心地となり、第四回仏典結集が開かれ、唐の玄奘三蔵(「西遊記」に登場する三蔵法師のモデルとなった人物)もこの地を訪れるなど古来より文化や経済の中心地でした。イギリスの植民地になったのちは、ヒンドゥー教徒の藩王(マハラジャ)を藩王国が成立したものの、実態としては外交権・軍事権がなく、イギリス人駐在官を通じて間接統治が行われていました。

イギリスからの独立運動が活発化していく中、民族運動を主導したガンディーは宗教的寛容を説き、ひとつのインドとしての独立を目指しましたが、ヒンドゥー教徒主体の運動にムスリム(イスラーム教徒)の不満が高まり、1947年8月にインドとパキスタンに分離して独立することになりました。インドは国民の多くがヒンドゥー教を信仰する政教分離体制の多民族国家として、パキスタンは国民の90%以上がイスラム教を信仰する宗教国家としてイギリスから独立することになりましたが、インドに住むムスリムはパキスタンへ、パキスタンに住むヒンドゥー教徒はインドへと移動し、略奪や虐殺などが発生して何十万人の人々が亡くなりました。カシミールは藩主がヒンドゥー教徒のためインドに帰属することになりましたが、人口の過半数以上を占めるイスラーム教徒は移動を拒否し、パキスタンへの帰属を求めました。ムスリムの多く住む地域を中心に国家をつくろうとしていたパキスタンはカシミールのインド帰属を認めず、48年にインドと戦争が勃発しました。これが第1次印パ戦争です。この争いは49年に国連決議による停戦が実現し、暫定的に分割して領有することが決定されました。

第2次印パ戦争はインドが実行支配するジャンムー=カシミールを完全に統合したという声明にパキスタンが反発し、65年9月に発生しました。この戦争が勃発した背景には、62年の中印国境紛争(中国とインドの間で発生したチベット・カシミール間の地域の領有をめぐる国境紛争)でインドが大差で実質敗北したことが背景にあげられます。中印国境紛争からパキスタンと関係を強めた中国がパキスタン側で参戦する最後通牒を出すなど、全面戦争が危ぶまれていましたが、最終的に国連安保理決議によって同月23日に停戦となりました。

パキスタンはインドを挟んで、首都がある西部パキスタンと東部パキスタンからなっていました。西部パキスタンは肌の白いアーリア人やパンジャーブ人が多く、東部パキスタンにはモンゴル系やバングラ人が多く住んでいます。東部で生産される麻がパキスタンの経済を支えていましたが、西部の人びとからは軽視されていました。このような不満から東部パキスタンは独立を要求し、西部パキスタンは軍を派遣します。インドは東部パキスタンを支援し、ここに西部パキスタンとの間で第3次印パ戦争が勃発しました。結果、インドが勝利し東部パキスタンはバングラデシュとして独立しました。

現在、パキスタン軍がインドとの戦力差をなくすことを目的に「ジャイシェ・ムハンマド」などのイスラーム過激派組織を支援しているともいわれており、カシミール領有を発端とする2国間の対立は今もなお、根強く残っています。

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