教室ブログ

2018.09.07

「普通」や「当たり前」の基準

こんにちは、Wam西浜校です。天災が続き、不安定な天候も続いています。お元気でしょうか?以前、幾度か孔子の「論語」についてのお話を

 

致しました。孔子には多くの弟子たちが居り、以下はその中の一人、顔回(がんかい)について評した物です。

 

子曰く、賢(けん)なるかな回や、一箪(いったん)の食(し)、一瓢(いっぴょう)の飲(いん)、陋巷(ろうこう)に在り。人はその憂いに

 

堪えず、回はその楽しみを改めず。賢(けん)なるかな回や。

 

<訳>顔回は何と賢明な人物であろうか。竹作りの弁当箱一杯の食事と瓢(ひさご)の水筒一杯の水で、寂れた路地の奥に住んでいる。普通の

 

人はその憂鬱に耐えられないだろうが、顔回は質素な生活の楽しみを忘れることがない。回は、何と立派な人物であろうか。

 

いい意味で見れば、「質素」や「謙虚」と言う言葉が浮かびそうですが、顔回本人からすれば、至って「普通」の事の様です。人によっては、

 

「貧相」とか「何恰好つけてんねん」と言うような心無い野次も飛びそうですが・・・。「普通」や「当たり前」の基準は、現実、千差万別で

 

すから、所謂「便利さ」を奪われた時、その基準に照らし合わせて様々な反応が窺えると思います。「不平や不満」が吐き出されるのか、「我

 

慢して待つ」のかはたまた・・・?皆さんは如何でしょうか?時勢に照らし合わせて、「如何だったか?」と表現するべきでしょうか?本音とし

 

て、少しは心の中で持ってしまうのは自然だとは思います。現代人かつ人間なので・・・、ただ、今では違和感満載であろう情景から必死に今の時間に引き戻そうとしてくれている

 

存在がその後ろに在る以上、その代わりに成れるのか、成れないのであればどうするのか?在るべき態度を考えるべきかな?と最近思いまし

 

た。後、他の人が失敗したり、上手くいってなさそうに「見え」て、その人を心の中で批判して自分を納得させる時が有るかもしれませんが、

 

実はそれとは裏腹にその人にとっては上手くいっていることが実は多かったりします。1度・2度や、1か月・2か月等少ない試行回数や長い期

 

間ではなく、100度や200度、1年・2年等多い試行回数や長い期間で物事を考えている様です。それがその人の「普通」や「当たり前」なのだ

 

と思います。世の中、常に何が起こるか分かりませんから、少しでも感情的にならない為に、「普通」や「当たり前」の基準は敢えて下げてお

 

くべきなのかも知れませんね。これから朝夕の気温変化も大きくなりますから、風邪などひかぬ様、体調に気を付けて下さい。

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