教室ブログ

2017.02.19

色んな道具の使い方

皆さんおはようございます、もしくはこんにちはこんばんはおやすみなさい、庄内校の塩崎です。「マスク」などのヒット作で有名なコメディー俳優のジム・キャリーが主演した「トゥルーマンショー」という映画で、彼が扮する主人公「トゥルーマン」の決め台詞が”Good morning!, and in case I don’t see you, good afternoon, good evening and good night!”(おはよう!そしてもし会えなかったときのために、こんにちはこんばんはそしておやすみなさい!)でしたね。

 

さて、私立受験お疲れ様でした!明日は特別入試、さらに後には一般入試も控えております。皆さん最後まで全力で頑張っていきましょう。

 

今回の更新では、2月度の「Wamだより」(庄内校で発行している塾だより)に掲載を検討していたもののボツとなった原稿を掲載いたします。それでは皆様、good afternoon, good evening and good night…

 

 

 

 

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去る冬期講習で、中三生を中心とした国語の授業を受けもった。中学に入ると、国語は中学生になると重要度が増す英語の陰に隠れがちで、しかも「どうやって勉強すればいいかわからない」筆頭科目だと思われているきらいがある。

 

そんな国語をどうやって勉強すべきか。「答えとその根拠は全て文中にある」という国語の大前提からはじまり、論説文(筆者の主張と具体例のイコール関係の読み解き)、小説文(風景への投射や比喩表現といった情描写の読み解き)、随筆(文学的表現と論説文的な道筋を辿りながらの読み解き)をそれぞれ対策した。

 

国語力とは、読書という習慣で安易に身につくものではない。それは英会話で身につけた能力が学校での英語学習に必ずしも効果的に作用しないことに似ている。ただ単に読書する際、読者はその文章の解釈から読み方に至るまで、大きな権限を付与されている。つまり、その文章に好き嫌いの判断を下すことができ、ケチをつけることもできるし、更には好きな時間に好きなように読むことができる。

 

一方、国語という科目内で文章を読む際、我々は自分の好き嫌いや価値観といった「主観的」な視座を「捨てなければ」ならない。つまり、筆者の考えや主張に自らのそれを同期させ、設問の指示を正しく把握し、論理的に問題を解かなければならないということだ。そのとき、自分がその文章についてどう思うかだとか、誰に感情移入するか、あるいは好き嫌いという主観は必要ない。むしろそれは、筆者の論理やその道筋を追いかけていく上では邪魔なものである。

 

何も、自分の価値観や主張を大切にすることの重要性を否定しているわけではない。そうではなく、各個人のそれらに当否を下したり点数をつけたりしても仕方がないし、それはもう勉強ではない、ということを申し上げているのである。

 

勉強というのは、論理的な思考を育むことを目的の一つとしている。論理的な思考というのは、用途に合わせて使う包丁を選び分けられる柔軟性のことである。必要ならば電気ドリルだってステープラーだって調理に利用できてしまう発想力のことである。ようは、必要に応じてそのとき最適な思考回路を選択することができ、かつある思考や物質に付随する本来の回路や用途とは別の道筋や活用方法を、状況に合わせて閃き導きだすことである。かのクロード・レヴィ=ストロースはそれを使いこなす人間のことを「ブリコルール」と呼んだ。

 

それとは対極に位置する人間のことを、世間は理屈っぽい人と呼ぶ。端的に、自分の思考にしがみついている人のことである。例えるなら、ペーパーナイフを手放さない人である。なるほどその人はペーパーナイフで封筒を切るのは上手かもしれない。でもそれで鯛は捌けない。子供が理屈っぽいのはこの為である。彼らは手持ちの思考の種類もその幅も少ないし小さい。教育というのはであるから、いわばペーパーナイフを手放す勇気を持たせることである。手持ちの思考とは別の思考を学ぶことである。

 

だから我々は、子供が到底その有用性や実用性を見出せないであろう学問を子供のときに学び、大人になって教える。使い方も用途もその将来的な実用性も明白な、いわゆる実学を学ぶことは、ペーパーナイフの使い方を極めることに似ている。それ自体に有用性がないというわけではない。ただ私には、せめて子供のうちは、出刃包丁からフルーツナイフの使い方を、鯖のおろし方から鯛のおろし方を、それらをたとえ浅くとも、たとえ二度と使う機会が訪れなかったとしても、幅広く学ぶことこそ、何よりも優先させるべき教育的教養であると思えてならない。

 

なぜならそれは、まだ狭量で頑なな子供達の思考の海に、学校という学び舎以外では到底触れることのない学問的叡智の一雫を滴らせ、それが生み出した波状の衝撃は、彼らが今見渡している海面上を越えてもなお、果てしなく続いていくのだという知における不変の真理を教えてくれるからである。

 

端的に言おう。論理的な人間になるというのは、人の気持ちがわかる人間になることである。それさえ身につけてくれれば、はっきりいって教育の目的はもう果たされているのである。

 

 

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